国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその9−2

■レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci)展 -2

 歩いてホテルからルーブル美術館に向かうには、まずはRue Mongeの広い道沿いをパリの中心、西方向に向かってしばらくたどることになる。Rue des Écolesに差し掛かったあたりから、左手奥には、ソルボンヌ大学の古い建物や、コレジュ・ド・フランス(Collège de France)など多くの有名な最高学府の建物が軒を並べている。

このあたりまで来ると、どこから右折してもセーヌ川の川岸に出る。眼の前がセーヌ川の中洲シテ島だ。昨年4月に火災で尖塔が焼け落ちたノートルダム大聖堂を、斜め後ろ側から望む最高のビューポイントでもあった。

ノートルダム大聖堂には巨大な足場が組まれ、大型クレーンや工事車両が取り囲む。一時は再建案の国際コンペや、最先端技術を駆使した斬新なデザイン案の採用などが検討されたが、結局以前と全く同じ姿に再建されることに落ち着いたようだ。

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再建工事中のノートルダム大聖堂

ただ、再建にはルイ・ヴィトン、グッチ、イヴ・サンローラン等の巨大ブランド企業が競うように総額でおよそ10億€(≒1200 億円)の巨額の寄付を申し出たことで、黄色いベスト運動の火に油を注ぐことになってしまった。

昨年4月の火災以降のデモには、「ノートルダムで起こったことは悲劇だが、人間は石よりも重要であるべきだ」、「ノートルダムには巨額の寄付、貧乏人にはどうするの?」と訴えるプラカードが掲げられ、ホームレスの活動家たちが聖堂前に座り込んだという。過激さを増すデモの背景には、深刻な格差問題が横たわっていることは間違いない。

 

再建工事中の大聖堂を右に見ながら川沿いの道をしばらく行くとシテ島の先端近くの右手にポンヌフ(Pont Neuf)が現れる。フランス語の意味するところは新橋だが、現存するセーヌ川最古の橋だ。ルーブル美術館に向かうにはここを渡って右岸に出ることになる。

半世紀近く前、この橋のたもとから左に折れた場所に、その名も新橋という日本レストランがあった。2人で入ったことがある。たまたまカウンターに妖艶な日本人美女が1人腰掛けていた。彼女は少し嗄れた大きな声で「モロッコで切り取ってきたのよ〜」と話していた。若き日のカルセール麻紀さんだった。もうそんな昔になるんだなぁ、などと思い出しながら橋を渡る。川岸に沿って左に曲がり、しばらく進んでからサインに従って右に入ると、そこがルーブル美術館だ。石畳の広い中庭を通ってさらに中に進むと、有名なガラス張りのピラミッドが現れる。そこが美術館への入り口だ。

若い東洋人の団体客が沢山いる。韓国語で話している人や中国語の人などが溢れていた。昔は日本人でいっぱいだったが、最近の日本人は団体ではなく、単独行動が多いようで、よく分からない。それに一昔前は、日本人観光客のファッションは際立っていてすぐ違いが分かったものだが、今は全く見分けがつかない。たまにすれ違う日本人は、東洋人の中ではむしろ一番地味に見える。パリだからといって、特にファッションに張り切ることがなくなったのかもしれない。

いずれにしろ、コロナ禍に見舞われてからは、フランス中から観光客の姿は消えてしまった。

 

入場を待つ人の長い行列があったが、並んでいるのはダ・ビンチ展を目指している人だけではない。時間指定の予約客は別の入り口に優先して誘導されるので、スマホの予約サイトを提示して入場し、ピラミッドを仰ぎ見る地下ロビーに出る。

 

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ピラミッドの下に広がる地下ロビー

 

久しぶりのルーブルだ。最初に訪れたのは1970年だったから、まだガラスのピラミッドができる十数年も前だ。

有名なミロのヴィーナス像が、手で触れられる位置に展示してあって、実際に触ってみた覚えがある。東京オリンピックの年に、日本で展示されたときの大騒ぎと厳戒態勢ぶりを覚えていただけに、あまりのあっけらかんとした展示に逆に驚いたものだ。何度か訪れているので、時期は忘れてしまったが、ロンドンの大英博物館に常設されていたロゼッタ・ストーンルーブルで見た覚えもある。これが、古代史を解明する辞書の役割を果たしたのかと感動した。

これまで何度も行っているが、未だに全部を見きれてはいない。

 

中では、同時にいろいろな企画展が催されているので、キョロキョロ探しながらダ・ビンチ展の入場口に到着した。レオナルド・ダ・ビンチ展だからといって、まったく特別感はない。入り口の設えは意外なほど質素なイメージだ。

 

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レオナルド・ダ・ビンチ展のエントランス

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英語版ガイドブック。画像の再現性が悪いが、エントランスのサインと同じ知的なブラウンで統一されている。

ガイドブックを手に、極端に照明を落とした入り口をはいると、最初に目に飛び込んできたのは、スポットライトに浮かぶ大きなブロンズ像「キリストと聖トーマス像」だ。周りの壁面には、ぐるりと取り囲むように、制作にいたるスケッチなどの習作が展示されている。特に衣服のひだを、何度も何度も入念に描き込んだ様子が伺える。撮影禁止の作品にのみアイコンがついているので、スマホでの撮影は自由だとわかる。本格的な一眼レフを持ち込んでいる人もいる。人類共通の文化遺産というポリシーなのか、警備員も日本では考えられないほどゆるい。

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入ってすぐのシンボルゾーンに置かれた大きな彫像

展示作品は全部で179点にのぼる。さまざまな絵画と直接対面してみると、サイズは小さくてもその迫力に押される。

 

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また、完成品に至る前の習作や検討スケッチが同時に展示されているので、手の角度や顔の向き、表情などが制作過程でどう変化したのかもわかりやすい。何がその変化を生み出したのかを想像するだけでも実にワクワクする経験だ。

 

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展示は4つのテーマに分類されていて、その3番目が、科学(SCIENCE)だ。小さなノートに図形や数式、そして鏡文字で記された解説などが見受けられる。

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ここで、私はとてつもなく大きなことに気付かされた。

私は武蔵野美大の講義で、レオナルド・ダ・ビンチの業績を引き合いに出して、500年前のヨーロッパの社会や技術、文化の成熟度では、彼の大発明は何ひとつ実現されたものがないと説いてきた。

しかし、この小さなノートにぎっしり詰め込まれた知の探求を目の当たりにすると、それを人に見せたいとか、きちんと作り上げたいとかの意識が微塵も感じられないのだ。そこにあるのは、純粋で、エネルギーに満ちた深い探究心のみだ。人はなぜこうまで、ただひたすら真理への探求に没頭できるのだろうか。驚くばかりの熱量が伝わってくる。この人は確かに社会も、歴史や文化もはるかに突き抜けている。

この人に限っては、その偉大なアイディアが実現されるかどうかなどは問題ではないような気がしてきた。そのアイディアだけで完結している。個性を通して湧き出てきた独創的な創造力というより、天からふって降りてきた宇宙エネルギーの塊なのだ。心から、本物を観てよかったと思った。

私の頭の中には何故かバッハの無伴奏チェロ組曲が荘厳に鳴り響いていた。

 

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその9−1

■レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci)展 -1

 

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人類史上最大の知的巨人、レオナルド・ダ・ビンチ

昨年フランスに着いてすぐに目についたのが、パリ、ルーブル美術館でのレオナルド・ダ・ビンチ特別展だった。2019年はダ・ビンチ没後500年の記念の年だ。この企画はなんと10年前から始まっていて、史上最大、おそらく今世紀中には二度と見られない大ダ・ビンチ展になると言われていた。2019年10月24日から2020年2月24日までの予定だ。期間中はすべて予約制。ゆっくり見てもらうために入場制限があって、希望入場時間も指定予約する。出場についての制限はないから、じっくり見たい人はずっと会場内に居てもいい。大人1人17€(2000円ちょっと)だ。11月に入ってから予約サイトで検索したが、年内は予約でいっぱいだった。オープン前にすでに25万人が予約したと、TVニュースでもやっていた。結局都合のいい入場時間が空いていたのは、最短で翌年の1月15日だったので早速予約した。ルーブル美術館も久しぶりだし、パリに滞在すること自体が、7~8年ぶりだろうか。

 

2月には終わってしまったレオナルド・ダ・ビンチ展を、いまさら紹介するのは、私がレオナルド・ダ・ビンチに特別な思い入れがあるからだ。実は、武蔵野美術大学芸術文化学科の創立以来、非常勤講師を勤めていた18年間、毎年講義の初日はダ・ビンチの話から始めていた。

レオナルド・ダ・ビンチが、人類史上最大の天才の1人だったことは疑問の余地がない。1452年に生まれたダ・ビンチは、絵画だけでなく、自然科学や人体のメカニズムにいたるまで驚くほどの研究成果をあげている。戦車やヘリコプターの設計図まで残しているのだ。同時代の日本は室町時代応仁の乱から戦国時代に向かうころだ。

ところが、彼の生きていた時代、500年前にはこれらの大発明は何ひとつ実現されていない。偉大なアイディアの記録が残っているだけだ。

15世紀末から16世紀初頭のヨーロッパの技術力では動力源や素材、精密な加工技術など、ダ・ビンチ本人だけでは手に負えないものを取り揃える事が出来なかった。それを可能にする歴史的、社会的準備が整っていなかったのである。

つまり、大天才がどんなに独創的で偉大な発想を持ったとしても、その時代の社会や歴史、産業や文化が成熟していなければ、アイディアは実現できないということなのだ。優れたアイディアが個人から創出されたとしても、実現するのはその時代の社会だ。社会にそれを必要とする強いニーズがあり、素材を調達できて、熟練した技術者がいなければ、目に見え、手で触れるものにはならない。

美術大学では、伝統的に個人の独創性が重視され、社会には少々疎くても構わないというような独特のカルチャーが根強く残っている。私は「実現」することこそがいかに大事かを説きたかった。実現するのは、天才的個人ではなく、社会のシステムだということを理解させたかった。

私は、90年代末、韓国のサムスンが自動車メーカーを創立するという壮大なプロジェクトに、あるコンサルファームの一角に入って参加した。私の担当領域は、あるべき企業文化の体系を創ることだった。

目標とする企業文化理念を創り、実現するための人事制度や評価システムを体系化することによって初期の企業文化を構築しようという試みだ。しかし、それを実現するために何より重要なことは、その事業自体が成功することだ。成功して初めて、あらゆる事前の計画が意味を持ち、組織的価値として行き渡り、結果その企業文化は伝統として定着する。したがって、成功に向けて組み立て中の他のコンサル分野とは密にコミュニケーションを図っておく必要があった。例えば、調達、製造技術、製造工程、販売体制、マーケティング等々、あらゆる領域との情報交換が重要だった。

その過程で、思いがけない具体的な困難が多数発覚したのだ。例えば、部品メーカーの製造技術精度が成熟していないと、部品それぞれの重量が指定された精度の範囲内に収まらない。先発メーカーからの政治的圧力もあって、自動車部品製造に経験のない町工場の技術で賄わなければならなかったのだ。エンジンルーム内の部品の総数と重量は相当なものになるから、設計通りの重量をオーバーすると、車全体の重心の位置が微妙にずれてしまう。結果、期待通りのパフォーマンスを発揮できないのだ。

また、車の外板パネルを成形する薄板鋼板のプレス成形機は一台で総重量100tを超すという。日本からそれを船で釜山まで運び、4つぐらいに分解して工場予定地まで運ぶことになった。しかし、当時のその道路は25tの重量物を運ぶことを想定されてはいなかった。結局道を補強し、橋を架け替えしているうちに、工場の工期は大幅に遅れ、当初予算は倍近くに膨れ上がってしまった。つまり、その時代の韓国のインフラは、新たに巨大な自動車メーカーを生み出すまでには成熟していなかった。年間100万台規模の量産を目指すとなると、保険制度や中古車市場、高速道路やガソリンスタンドから駐車場にいたるまで、壮大な規模の社会インフラの拡大整備を必要とする。車のデザインは日産の協力のもとにすでに出来上がっていたし、製造ラインも準備は整っている。サムスンの資金力は潤沢だし、優秀な人材も揃っていて、士気も高かった。しかし、それだけでは実現できないのだということを思い知らされたのである。

講義では、それ以外にも建築の独創的な設計と、それを実現するための構造材や、ジョイント部材メーカーの技術やコストダウン策、それらを現場に運ぶ物流システムの整備が必要になることなどの具体的な事例をいくつも紹介することに努めたのだった。

講義の初日には、それらの話につなげるためのツカミとして、レオナルド・ダ・ビンチを常に引き合いにだしていたのだ。

その意味でも、ここはぜひとも実物の作品をじっくりと鑑賞したかった。

 

 

黄色いベスト運動(Mouvement des Gilets jaunes)

レオナルド・ダ・ビンチ展が開かれている2020年1月のパリは、黄色いベスト運動(Mouvement des Gilets jaunes)のさなかで、交通機関も大幅に混乱していた。コロナ禍が一気に蔓延する2ヶ月ほど前、話題はもっぱら過激化する街頭デモと、交通マヒのことだった。私達は車でのパリ行は諦めて格安フライトを予約することにした。昔なつかしいオルリー空港着の国内線である。

国内格安便をネットで手配したが、つい見間違って、帰りの便はなぜかリヨン経由にしてしまった。帰りの便をわざわざ遠回りさせる格安便があるとは思いもよらなかった。気づいたのがしばらくあとからだったので、再予約も面倒だし、特に急ぐ旅でもないので予約はそのままにした。

 

1月14日の午後の便でビアリッツ空港をあとにしたが、たまたま飛行機内で目にした新聞のトップ記事に驚いた。あのフランス最高峰の超エリート養成校ENAが廃止されるというのだ。

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ENAを廃止するという衝撃的なニュース

これから向かうパリは黄色いベスト運動で燃えている。まさにそれに対してマクロン大統領が打ち出した改革策のひとつだという。

ENA出身という人には東京でも何人かに会っているが、その1人はエコール・ポリテクニーク(理系グランズエコールの最高峰)を卒業後、20代でアメリカのアインシュタインが教えていたプリンストン大学の物理学教授として招かれ、教鞭をとっていた。そのあと、帰国してENAに入り、卒業後フランス財務省に入省したということだった。そんな経歴の持ち主がごろごろしているところだ。歴代大統領も多く輩出していて、マクロン大統領自身がエナルク(ENA出身者)だ。ゼネストに対応してENAをなくしてしまうとは、一体何が起こっているというのだろう。

そもそも、黄色いベスト運動なるものが門外漢の私にはよく分からない。発端はディーゼル燃料の値上げ反対に端を発しているとはいえ、従来のストライキやデモとはかなり趣を異にしている。

特徴は、運動の中心的リーダーがいないこと、SNSを駆使したパリ中心から地方へのデモの拡散、従来の左右の対立よりはエリートの特権性の否定などだという。

私はふとハイコマンドという言葉を思い出した。ハイコマンドとは、新自由主義を解説する際に、従来の少数エリートによる計画的経済運営、つまりハイコマンドを否定し、市場の自由競争原理に経済の主導権を委ねるという解説に使われた言葉だ。民営化政策の理論的背景でもあった。しかし、新自由主義的政策を打ち出しているはずのフランスでは、ハイコマンドの頂きこそが、全ての不平等、格差の源だという批判が巻き起こった。ハイコマンドの象徴であるENAには確かに貧困層からの入学者はいない。

マクロン大統領は、国民に対する約束として、ENAの廃止をすでにだいぶ前から訴えていたという。

しかし、エリート層が支配するフランスの体制を改革して、地方や貧困層に富を分配せよという運動を収めるために、それが直接役に立つ政策とも思えない。超エリートとは、どんな環境からでもむくむくと這い上がってくるものだ。そもそもリーダーレスの運動体と政府とは対話の方法もないのだ。今や何が主たる運動目標なのかも分からない暴動も起きている。公共交通機関はほとんど動いていない。

 

オルリー空港につくと、すぐにタクシー乗り場に向かった。乗り場には昔と違って管理体制がかなりしっかりと機能していて、係員に順番に誘導される。パリ左岸行き乗り場にも長い行列があったが、次々と裁かれて行き、そう待たされずに乗り込むことができた。私達が目指す5区はセーヌ川左岸、€30の固定料金制だ。

予約してあるB&Bホテルは、5区学生街の真ん中Rue Mongeに面している。私が50年前住んでいたところからもすぐ近くだ。建物2階(日本でいえば3階)の入り口には、チェックイン受付担当のアジア人女性が待っていて、鍵や中の使い勝手を説明してくれた。入り口ドアの内側には、さらに3つのドアがあって、客室は3部屋あるらしい。部屋は狭いが、かなり合理的にできていて、2泊ぐらいであれば我々にも耐えられそうだ。朝食用の飲み物や軽食も小さなキッチン脇に揃っている。3部屋共通の玄関の壁面には、おりからの交通マヒに対応するかのようにキックボードが備え付けられている。自由に使っていいという。

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ホテル入口壁面に据え付けられたキックボード。自由に使っていいという。

 

お腹も空いてきたので、すっかり暗くなってはいたが、勝手知った街に繰り出した。近くのPlace de la Contrescarpeは半世紀前に2人でよく訪れた小さな広場だ。広場を中心に、周りを囲むようにレストランやバーが立ち並んでいる。その後も何度か訪れた事はあるが、店はすっかり変わっている。ただし、建物自体はほとんど変わっていないので、街を歩く分には迷うことはない。街には学生っぽい若者が沢山いる。昔ここにはギネスのバーがあったとか、いやあっちの角だったとか会話がはずんだ。懐かしい街をぶらぶら散策してから、小さなレストランに入った。久しぶりに生牛肉の料理、ステック・タルタルを堪能した。庶民的な赤ワインもうまかった。翌日はいよいよ、ルーブル美術館だ。

地下鉄は時間が読めない変則的間引き運転中なので、入場予約時間に間に合わせるには歩いて行くほうが安全だ。若い頃、よく歩いたセーヌ川沿いの道をたどって行けばいい。久しぶりのパリ散策には一番いい通りかもしれない。

 

 

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその8−2

市民講座 Day 2

第2回目の市民講座は、1週間後の7月15日、同じ会場で行われた。私は、再び同じホテルに部屋を取り、同じように前日の夕方から入った。今回は靴も歩きやすいスニーカーにした。 

行きの高速では、追い越し車線を130kmで走行中に、右車線を走る3台前の大型キャンピングカーの後輪1個が突然バーストした。続く車数台とともに右に左に蛇行しつつ、やっと切り抜けた。複数の甲高いブレーキ音が鳴り響き、いやがおうにも危機感が高まる。タイヤがダブルだったようで、横転しなかったことや、道がすいていたことが幸いして大きな事故にはならなかったが、タイヤの破片が宙を舞う恐怖の瞬間を味わった。バカンスのこの時期、長く放置されたままのキャンピングカーなどが高速に繰り出すので、車間距離を十分にとっていないと怖いのだ。

 

チェックイン後、真っ先に先週も開いていなかった美術館を訪ねたが、やはり今回も休館中だった。

1時間ぐらい街をさまよってみたが、やはりどこか烟った感じで、馴染めない街だ。きれいな街並みの一角ぐらいはあるだろうと探し、スマホの写真編集機能を使って画面を切り取ってみたが、どうだろう?こうやってみると少しはきれいな街並みに見えるだろうか。

 

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PAUの街並みを精一杯切り取った一角。下の3個の筐体は分別ゴミの収集用だ。

しかし、たむろする若者もガラが悪そうで、人気の少ない公園にも踏み入る気がしない。暗くなる前にホテルに戻り、ビールを一気に流し込んで、自作のサンドイッチをつまんだ。結構うまい。

 

翌日の朝、会議室のドアは9:00丁度に開いた。講師陣は前日から同じホテルに泊まっていたらしい。私と同じことに気づいたのだろう。

受講者も通訳の顔ぶれも同じだ。前回と同じように出席者名簿が回ってきて、それぞれ自分の名前の欄にサインをする。午前と午後2回サインが必要だ。

アラブ語グループに新顔の中年男性が遅れて到着した。マスクをしていない。何人かに注意されたが、持っていないらしい。主催者がバッグから予備のものを取り出して、それをつけるようにと渡した。

少し前まで、マスクにはコロナ予防の科学的根拠がないと、政府見解を出していたフランスが、今やどっちを向いてもマスクだらけだ。TVのニュース番組で一番耳にする単語が「マスク」だ。なぜこうなったのか、世界中のマスク騒動はよくわからない。この現象こそをパンデミックと呼ぶのかもしれない。

 

アラブ語通訳グループは人数が多いためか、通訳を囲むようにロの字の机配置になっていた。

 

今回の講義は、前回から更に踏み込んで、住まいを借りる場合の契約のしかたや契約の種類、賃貸契約の法的拘束の意味等かなり具体的な話が続く。借りる場合は事前に壁の傷の在り処などを写真にとっておけとまでのアドバイスがある。どうやら通訳自身の実体験も混じっているようだ。さらに働き先の見つけ方や、雇用契約の種類や最低賃金、労働時間制限の話などが続く。週35時間労働制で、残業も1日の計が10時間までと限定され、トータルで週48時間を超えることはできないという。雇い主にそれ以上を要求された場合の連絡先まで教えてくれる。市役所にある駆け込み寺的機能だ。私の若い頃の労働時間を考えると、当時の日本の経営者は、ここでは全員逮捕されていたかもしれない。

いずれにしろ、フランスで家を借りるつもりも、仕事もするつもりもない73歳の日本人にとっては、およそ縁のない話だ。一般教養のつもりで聞くことにした。

講義の中で、もっとも熱心に解説されたのは、ライシテ(laïcité)だ。政教分離無宗教主義を意味する。イスラム教徒の多い移民に対しての、とても重要な教宣活動なのだろう。
手元のスマホで調べてみると、1905年の「政教分離法」が元となっていて、いかなる宗教も優遇せず、公共の場に持ち込ませない代わりに、信仰の自由などの権利は平等に保障するという原則だ。

スマホ使用は自由なので、気になる項目などがあれば、即座に検索して確認ができる。スクリーン上のパワポ画面も撮影可だ。そういえば大学では、私の学生もスクリーンをシャカシャカやっていた。

講師と通訳は、何度もフランスの体制にとってそれがいかに重要な原則かを強調するのだ。

イスラム教の話の前にキリスト教徒としても、例えば学校教師や病院の看護師といえども、職場での十字架のペンダントをつけることすら禁止されていると説く。だからイスラム教徒も学校ではスカーフで顔を覆ったりはできない。ただし公共の場以外では、信仰の自由は保証されているので、よほど異常な儀式でもない限りは、どんな宗教的儀式も自由なのだ。学校、病院等公共的施設には特定の宗教を示唆するようなものは一切掲げてはならない。少し前に焼け落ちたノートルダム大寺院の復興に国の税金を使うことだけは、歴史的かつ観光的重要な建造物としての社会的価値を鑑みた特別の処置だとの説明だ。質問は極力控えていたのだが、つい、フランスの病院や薬局にはキリスト教の十字架がシンボルサインとして使われているが、あれは歴史的、社会的な慣習からのものなのか?と訊いてみた。通訳は、講師につなげることなく自分で答え、薬局は私企業だから構わないが、病院に十字架のシンボルは決して使わないという。あちこちの病院に頻繁に通っている身としては、事実として、道路上の病院を示すサインや地図上での十字架はよく見かけるし、私はそれを目印に車を運転しているのだ。少し退屈していたせいもあって、何時になく重ねて訊いてみた。通訳の女性は、頑なにそれはないと強調する。イスラム教徒の新参者が多いこの場では絶対に認めてはいけない原則を強調しているようだ。使命感も溢れている。原則を教え込むべき場所で、私のそんな混ぜっ返すような質問は意味のないことなのかもしれない。全体のコンテクストから言ってもくだらない質問をしてしまったと後悔した。

 

12時少し前に午前のセッションを終えると、前回と同じレストランで、今度は焼け過ぎのまずいチキンの昼食をとった。昼食の時、私の席にやってきたのは、先週同席した例のアフガニスタン人だ。こんなところにいる得体のしれない老日本人に興味があるらしく、今回はやたら質問してくる。住んでいる場所や、日本での仕事、東京の話、サムスンは日本企業か?等など質問攻めだった。今やソニーよりサムスンのほうが有名らしい。私が車で来ていると聞くと、その車の値段はいくらぐらいかと訊いてくる。彼がこれぐらいかと訊いてきた車の値段は、一桁違う低い数字だった。彼のこちらでの生活水準が伺われて、適当にごまかすしかなかった。私自身は自分の経済状態は周りと比べても大したものではないと自覚している。しかし、同じ講義を受けている人間と私との境遇の格差はあまりにも大きいのである。ノーテンキに自分のフランスでの立場を語っても何の意味もない。質問にも正直に答えることができなくなってしまった。何か自分が場違いなのだ。私は呼び出されたから来ただけだが、おそらく私のような年齢と境遇の人間が同席する場ではないのかもしれない。今回が特別なのかどうか知る由もないが、私と同じような立場の人間は極端に少ないに違いない。

 

午後のセッションは、引き続いて具体的な事例をわかりやすく説明してくれる時間だった。連れてきた外国籍の子供をフランスの学校に入れる場合の特別学級の制度や、健康保険への具体的な加入方法、かかりつけ医から専門病院への連携システム等々、現実的で実用的な話が続くのだった。途中、雇い主との具体的なトラブルとか、子供の学校での問題などの切実な質問も続出し始めた。私はますます疎外感を感じて、すっかり滅入ってしまい、早くセッションが終わることをひたすら願うばかりであった。前回までの抽象度の高い、理念的な話や歴史の話はとても面白く聞くことができたが、移民が日々直面する具体的な問題の話になると、個人的には全く遠い領域だ。

 

こういったセッションに参加してみると、この滞在許可証取得のための移民政策の本当のねらいもだんだん見えてくる。

要するに、移民としてこの国を目指す人々の国とフランスとの、経済的、社会制度的、そして軍事的(これは意識下の背景として意外と大きい)格差がとてつもなく大きいことが前提となっている。そこへの人道主義的救済策を名目とした人間管理政策なのだ。膨大な個人情報が入手できる。

実態は、テロ対策や犯罪防止対策、不法移民を排除するための極めて政治的な管理政策に違いがない。したがって、基本的には帰る国がなかったり、フランス語が不自由で、生活に困難を伴い、仕事を探す人が対象なのだ。

事実、50年前にパリにいた当時はこんな政策は聞いたこともなかったし、ボルドーでのフランス語テストのときも、担当者から50年前にはこんな施設は存在していなかったといわれた覚えがある。

時代とともに必要が高まって、年々強化されてきた政策なのだろう。内容は毎年のように変わってきている。

フランスを訪れる多くの観光客は主に先進国からで3ヶ月以内には帰国する。ビジネスマンとして駐在する人は家族も含めてビザの種類が全く違う。留学生はそもそもこちらの大学で学ぼうとするくらいだから、日本にいた頃から必死でフランス語を学んで学生ビザを取得し滞在許可を取得する。学生である限りは移民対策の対象ではない。シェフやパティシエの修行のために渡って来る日本人は対象になるが、もともとモチベーションが違うし、多くは日本に帰ることを前提としているから、滞在許可証取得のための退屈な研修にもハングリー精神で臨むことができる。あとは、フランス人と結婚してフランスで暮らそうとする人が対象だ。私はこのカテゴリーに属する。どうやら偽装結婚も増えているらしいから、10年ビザを取得しようとするときには、係官が抜き打ちで住所にやってきて、夫婦としての生活実態があるかどうか、記念写真のたぐいまで執拗に調べることがあるとWEBには載っている。私のところに来られても、記念写真のたぐいは全て日本に置いてあるから困る。

 

一方日本では、フランスの大企業から派遣されてきた人以外にも、日本で仕事をしているフランス人や、日本人と結婚しているフランス人もたくさんいる。片言の挨拶程度しか日本語のできない人も多い。かといってフランス語が通じるわけでもないので、下手くそな英語でことを足している人にもたくさん会ったことがある。

逆に結婚相手の日本人にはフランス語を流暢に話す人も多い。そういうカップルに政府や自治体が人道的援助の手を差し伸べることはないし、民間ボランティアが、彼らに日本文化を教えたり、様々な社会制度やコミュニティーの利便性を伝えたりすることはあっても、国費で市民講座を強制することはない。

在日フランス人に対してテロ対策の対象と考えることも、特殊な場合を除いては考えられない。

私の場合は、妻が大統領の通訳を務めるぐらいだから、日本語については読み書きも含めてほぼ完璧だった。したがって日本で暮らす限りは、私のフランス語はほぼ必要がないまま半世紀が過ぎたのだ。

日本で暮らす多くのフランス人と同じように、私もフランスでは、片言のフランス語とそこそこの英語を使えば、十分にこちらでの日常生活に不自由はない。日本語や英語で話せる相手もたくさんいるし、今やインターネットも自由に使える環境だ。

最近では様々な公的手続きもWEB上で済むようになったから、フランス語に不自由のない家族の助けを借りれば何とかなってしまう。生活に困るわけでも、仕事がしたいわけでもないので、ほとんど外部の手助けを必要としない。そういう意識と境遇の73歳の老人が、フランス移民局の難民管理体制のもとに組み込まれることにそもそも無理がある。税金と時間の大いなる無駄遣いでしかない。

とはいえ、国が定めたルールだし、承知で移住(こちらに来るまではよく分からなかったが)を望んで来たわけだから、ここは鬱陶しくても我慢するしかない。

 

幸い、今回も4時過ぎにはすべての研修は終了し、修了証を受け取って全工程は終わった。

 

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市民講座第1回と第2回の修了証。表紙(何故か2019年版だが)には、第3回と第4回めについても記載されている。

 

あと2回の履修が必要とされているが、今のところコロナ禍の影響で、全く予定の目処はたっていないという。ただ、ここまでの研修を終えたので、事実上は滞在許可が交付されたと同様のステイタスとして扱われるという。したがって、制度的義務や手続きはまだ残っているが、全く心配しなくてもいい。出入国に関しても何の障害もないと強調された。

 

帰りの高速では、ボーっと考え込んでいたせいもあって、インター入り口からの分岐車線を間違って、反対車線に乗り込んでしまった。このまま行くとトゥルーズ(Toulouse)へ行ってしまう。すぐに次のインターで降りて反対車線に乗り換えようと思ったが、一旦街へ出てナビを頼りに知らない街なかを抜けて、インターに戻るのも面倒に思えた。道路サインを見ると、20km先にサービスステーションがある。130kmで飛ばせばすぐの距離だ。一旦そこの駐車場に入って、トイレにも行き、落ち着いてスマホのナビで、インター出口から出てすぐにUターンできるところを探してみた。見るとそこから更に20km程先にそんなインターがあることが分かった。時間的には、街なかでもたもたするより早いに違いない。

ピレネーの美しい山並みを眺めながら運転を続け、自分はこんなところで一体何をやっているのだろうという物思いにふける。往復90km近くの余分な走行をした上、3時間以上をかけて帰路についたのだ。早く冷たいビールが飲みたい一心だった。

 

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその8−1

■市民講座 Day 1

さて、市民講座初日の7月8日を前に、ポーまで日帰りするかどうか大いに迷った。結局安全策をとって、前日から会場のあるホテルに泊まり込むことにした。まだ移民局からは何の連絡もないが、前日から入っていれば、急な変更にも対応できるはずだ。今はコロナの影響でホテルはどこも空いている。2〜3日前になってネットでホテルの予約をとった。我ながら意外と用心深い対応に、自分の性格はこんなだったかなと苦笑してしまった。日本で移住の前に詳細なチェックリストを作って、漏れがないように作業を進めてきたクセがついたのかもしれない。

前日7月7日の夕方、小型スーツケースに着替えや洗面具(フランスのホテルには必携だ)それに召喚状やパスポート、もろもろの書類を詰めてトランクに放り込み、車で自宅をあとにする。今度は一人旅だ。

快調に高速を飛ばしてポーに着く。今回はナビに頼らなくても目指すホテルまでは簡単にたどり着けた。それでも所要時間はドアtoドアで約2時間弱はかかった。渋谷の自宅から富士山の別荘までの時間とほぼ同じだ。駐車場を塞ぐ鉄扉の前まで恐る恐る車をすすめると、自動的にドアが開いて、中庭の駐車場に入ることができた。スペースにも余裕があって、問題なく駐車もできた。

 

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会場となる貸し会議室のあるホテル

チェックイン後、時間を持て余して散歩に出る。ポーには、ナントの勅令で有名なフランス王アンリ4世が生まれた城がある。調べてみると、歩いて行ける距離でも、すでにそんな時間でもないので諦めた。

近くに大きな公園もあるので周辺の散歩にとどめた。正直街並みはさほどきれいとはいえない。曇天だったせいか、真夏なのになぜか薄汚れた寒々とした感じがする。あまり豊かな街ではなさそうだ。歩いてみると道路は犬の糞だらけ。ここ10年ぐらいで、フランス名物だった犬の糞はすっかり道ばたから消えたから、むしろ懐かしい。昔は靴の底にくっついたそれを削ぎ落とす小さな鋳物の板が建物の入り口脇に付いていたものだ。パリでも古い小路の歩道沿いには今でも残っているが、それが何か知っている人はすでに少ないかもしれない。

30分ほど歩いた頃、たまたま新しい靴を履いてきたせいで、靴ずれができてしまい、早々に引き上げることにした。前回の訪問で、あまり美味いものをだしてくれそうな店も見当たらなかったし、何より、私は一人でレストランに入るのが東京時代から大の苦手だ。自宅近所の行きつけのパン屋さんでお好みのサンドイッチを調達してきた。部屋に戻れば冷たいビールも待っている。スマホを覗いてみたら、移民局からのメッセージが入っていた。会場がこのホテルに変更になった知らせだ。なんと前日の夕方にやっと連絡がきた。なるほど・・。

 

翌日の朝、チェックアウトを済ませると、荷物を車のトランクに入れ、真夏の日差しを避けるため、屋根付きの駐車スペースに移動してから、会場前の待合いスペースに入った。入り口にはマスク必着のサインと手の消毒用ジェルが置かれている。いかにもアラブ系の家族何人かがすでに待っていた。9:00ごろ係員らしい人が現れるも鍵が開かない。結局担当者が、遅刻厳禁の会場に鍵を持って現れたのは9:10 ごろ。次回はゆっくりできそうだ。

 

召喚状の確認後、グループ分けが行われた。フランス語での受講者が4人。プラチナブロンドの長い髪をなびかせた東欧系の若い女性と、アフリカ系の女性2人。フランス語圏のアフリカ出身者だろう。それと中東系の男性だ。

私は英語の通訳付きのグループに入った。全部で4人。フィリピンからの女性とチベットからの若い亡命者と思しき2人。髪を黄色に染めた、場違いにパンクな風体の1人はドラゴンボールの漫画入のTシャツを着ている。

残りの10人ほどがアラブ語通訳付きのグループ。ボルドーの時と同じようにアラブ語系が多い。ただ国籍や民族は不明だ。女性はイスラム教徒独特のダブダブな長い服に派手なスカーフをかぶって首の下で結んでいる。何故か場違いのルイビトンのバッグを下げていた。

英語の通訳は、自分ももと移民だったというアルゼンチン出身の中年女性だった。ネイティブではないが、ゆっくり話してくれるから私にはわかりやすい。

出席名簿にサインをすると、椅子を横向けにして講師と反対側に位置する通訳に顔を向けて座る。講師の話よりは通訳からの話を聞きなさいという体制だ。

通訳は、何度も同じ内容を通訳しているので、必ずしも逐語的に訳すわけではないが、皆さんにわかりやすく説明するので、しっかり私の話に耳を傾けなさいという。感じは悪くはない。

まずはお互いの自己紹介だ。フィリピン人女性はフランス人と結婚してこちらに来て、今フランス語の勉強中。子供もいるという。チベットからきたという2人は、英語といっても通じているのかいないのかよくわからない。直にチベット人に会ったのは初めてだ。チベット語と中国語を話すという。通訳もチベット人の参加者にははじめて会ったという。

講義はパワポを使って始まった。講師はアフリカ系の男性フランス人だ。

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パワポでの解説だが、フランス語以前に文字が小さくて読めない。

スタートはフランス共和国のシンボルの紹介と解説からだ。トリコロールの国旗、国歌マルセエーズ、国是「Liberté, Égalité, Fraternité 」、など解説が続く。フランスのシンボルは多い。1789年のフランス革命についての説明もあるが、あまり詳しくはない。記念日が休日だという程度だ。そういえば来週だ。

ちなみにフランスの女性像の象徴マリアンヌは、制定当時ファーストネームとして多かった名前の上からマリーとアンヌから採ったのだそうだ。

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市庁舎などに置かれるマリアンヌ像。ときの人気女優などがモデルになることがある。

マリアンヌの由来は諸説あって、いろいろ聞いたことがあるが、この話は初めて聞いた。

 

こういった、シンボルや基本理念から解説を始めるやり方は、コーポレート・アイデンティティ(CI)を専門とする私には極めてわかりやすい。

ひるがえって、もし日本の全体像を日本政府主催で、移民外国人に説明するときにはどう始めるのだろう。帝国(エンパイアー)ではないはずの日本の象徴天皇をエンペラーと呼ぶのは何故なのか? 国の基本理念であるはずの憲法前文をどう説明するのかも極めて興味深い。まさか、敗戦国として占領軍に押し付けられたものなので、今改正しようとしているとは言わないだろうなぁ。憲法では軍隊を保持しないことになっている、したがって自衛隊は軍隊ではない、とは昔政府の真面目な見解だった。移民として日本国の体制を勉強しようとする人間にとっては、驚愕の解説だろうなぁ。

 

フランスの自治体の単位とか、5つの海外領土、世界で3億1千5百万人いるというフランス語を使う人口の話などが続く。世界で第5位だそうだ。1位は中国語で、2位はインド・ヒンドゥー語だというが、英語やフランス語が国際語化されての使用人口数と同列で比べて意味があるのかしら。少し落ち着いて聞いていると、講師のフランス語での解説と、英語通訳の話は微妙に違っていることに気づいてくる。そもそも彼女は"通訳"をしていない。講師の話をきっかけに自分の思いや知識を話すのだ。フランスの自治体の総数とか、EUの構成国数などは講師のいう数字とは違っていたりする。ただ、単純な間違いや勘違いなら、あげつらっても時間の無駄なので黙っていることにした。

 

そのうち、昼休みになって、近くのレストランまで全員で食事に行くことになった。

そのレストランとは契約ができていて、費用は移民局の予算で賄うのだという。ベジタリアンメニューなどを含む3〜4種のメニューから私はメキシカンピザを頼んだ。飲み物を訊かれたのでビールは?ときくと、さすがに駄目だとのこと。ビールもワインもなしで昼食をとるなんて何年ぶりだろう。それにしてもピザは不味かった。半分近く残してしまった。フランスでこれほどまずい料理に出会ったのははじめてだ。

同じテーブルに着いたのは、2人のチベット人と、ドイツから来たというアフガニスタン人だった。若いチベット人は、ダライ・ラマを信奉する仏教徒だというが、国籍は中国だという。どうやら逃れてきたらしい。中国の話は小声になり、詳しくは話さない。チベット人アフガニスタン人との会話は、初めて聞く言語なので何語か訊いてみると、ウルドゥー語だという。アフガニスタン人とチベット人仏教徒ウルドゥー語で話しているのだ。世界は広い。

隣のテーブルの大柄な男性は、にこやかな笑みを浮かべて親しげな視線を投げかけて来る。フランス語で訊いてみると、シリア系クルド人だという。アメリカ、ロシア、トルコがシリアで複雑に絡み合う覇権争いの犠牲者の一人だ。国際情勢の縮図の一つがこんなところにも現れているのか。もうひとりのアフリカ人は全く会話に参加しようとしない。顔を上げずに黙々と食事をしている。クルド人に訊くと、彼はスーダンからきたという。おそらく南スーダンの紛争地からの難民だろう。彼もアラブ語通訳のグループだ。皆とてつもない運命を背負ってここまできている。のんびり海辺のリゾートで暮らそうという私なんかはとても仲間にはなれそうにない。彼らはコロナの話でさえ、さほど関心がないのだ。確かに、目に見えない恐怖など、彼らにとっては話題にするほどのことではないのかもしれない。

私の目の前のアフガニスタン人は英語もうまい。母国語以外にフランス語、ドイツ語、英語を使いこなす。容姿は東洋人だが目だけが薄いブルーだ。日本にもかなり関心があるとのことだが、日本は彼らにとって遠く暮らしにくい場所だという情報が行き渡っているらしく、日本はどうだ?と訊いても、軽く微笑むだけだ。日本政府にとっては好都合なのかもしれない。

会場までどこからどうやって来たのか訊いてみると、ここからバスで10分くらいのところから来たという。同じ答えをする人が何人もいる。詳しくはわからないが、近くに移民(難民)の一時的な収容センターのようなところがあるらしい。

アフガニスタン人は、最初は難民としてフランスに来たが、その後ドイツに渡って仕事をしていたという。仕事はいろいろだというが、特に何かをやりたいというよりは、自分にできる仕事の中でペイがいいものを選ぶだけだ。ドイツはペイもよく、暮らしやすかったが、移民政策が厳しくなってフランスに送り返されたのだそうだ。ドイツに比べてフランスで仕事を探すのは大変だという。国には家族がいるそうだ。本音はドイツに戻りたいというが、表情は暗い。つい、アフガニスタンには?と訊くと、戦争中だよ、分かっているだろうという表情で答えた。馬鹿なことを訊いてしまった。境遇も会話の質も、もちろん年齢もあまりにも違う。彼は30歳だという。

 

午後の講義は、午前中に学んだフランスの理念が、具体的にどんな制度に落とし込まれているかの具体的な紹介だった。健康保険のこと、学校のこと、警察、消防、救急車の呼び方、あとは、住まいのある市役所での頼りになる福祉制度の話などだ。1:30すぎから始まった午後の部は、かなりペースダウンし、一度休憩をはさんだあと、予定を大幅に繰り上げて4:00過ぎには終了した。

一人ひとりに第1回の市民講座修了証が渡される。来週同じ曜日の同じ時間にまたここに集合するようにとの指示を最後に、全工程は無事終了である。来週もホテル泊まりのほうが楽そうだ。

 

帰りの車の中では、同席した受講者たちのことが頭から離れなかった。

それにしても、この大規模な移民の同化政策にいったいどのくらいの国費が注がれているのだろう?

フランスのあちこちで過激な行動をとるテロリストも、おそらくはこういったコースを終了した上で、フランス国内で生活していたに違いない。フランスの人道主義の基本理念は、はるかフランス革命から続く国是だ。EUの基本理念もこれに立脚している。たとえ極右が政権をとったとしても、国是を簡単に捻じ曲げることは難しいだろう。国是は時の政権よりも上位にあるのだ。それを変えるにはもう一度革命が必要なのかもしれない。一方、EUの共通の理念からイギリスが出ていってしまった。一体フランスはどこに向かって行くのだろう?

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその7

007

■市民講座(la formation civique )

 

ポー(PAU)

私の滞在許可証を取得するための必修市民講座は3月19日と3月26日に指定されていた。毎回、朝9:00から17:00までカリキュラムがびっしり組まれているという。指定された開催日は2日間だが、時間をあけて都合4日間に渡る長丁場の必修講座だ。以前は2日間だったが、2019年から4日間になった。年々厳しくなるようだ。

 しかし、コロナ禍の影響で連絡が途切れていて、3月に入っても全く音沙汰がなかった。前代未聞のパンデミックに、すべてが混乱していて、こちらからコンタクトを取ろうにも、WEBも電話も全く連絡が取れないのだ。

5月11日からフランス全土の規制が緩和されたあとも音信不通状態が続いていたが、突然6月23日付けで召喚状が2日分まとめて郵送されてきた。

7月8日と、7月15日それぞれ朝9:00までに、遅刻することの無いように指定場所に出頭されたしとのことである。

場所はポー(PAU)。行政管轄としては、ボルドー(Bordeaux)を首府とするヌーヴェル= アキテーヌ地域圏内に属する、ピレネー・アトランティック県の県庁所在地である。ビアリッツから東におよそ100 km、車で1時間半ほどの内陸部にある。

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ビアリッツから西の内陸部に100kmほどのところにある県庁所在地ポー(PAU)


 

ポーはピレネー山脈のふもとにあって、美しい山並みの眺望は有名だが、観光地としては、これと言って特筆されるものはない。もちろんフランス中の地方都市と同じように、由緒ある歴史遺産はいろいろある古い街だ。日本の甲府市姉妹都市だそうだ。

車で100km前後の距離というのは、日帰り圏としては微妙な距離だ。遅刻厳禁の初めての場所に車で行って、朝9:00までに会場に入るというのは、少々リスキーでもある。ビアリッツからの電車もあるが、一番早いものでもポー着は指定時間に間に合わない。日帰りで行くとしたら車しかないのだ。

コロナ禍のせいで、我々も長く自宅待機を強いられてきたので、ここは道路事情などの下見も兼ねて同じ曜日の同じ時間帯に、ドライブしてみることにした。気分転換も兼ねて、ポーに面白そうなところがあったら訪ねて見ようかということにしたのである。

所要時間1時間半とみて7月1日朝7:00ちょっと過ぎに、NADIAと一緒に家を出た。

ポー市内に入ってからは、車載ナビに従っていると道路が工事中だったり、バス専用道路だったりに阻まれて、もたもたが続いた。やっと指定の建物に到着したときは、9:00を少し回っていた。当日日帰りで行くなら、朝遅くとも6:30すぎには家を出なければいけない時間のかかり方だ。

指定された建物はALIFSといって、移民局から委託されて市民講座の運営を任されている団体だ。あとで調べて分かったのだが、召喚状には出頭先としてALIFSという記載があるだけで、移民局(OFFI)とどんな関係があるのか何の説明もない。ALIFS(Association du Lien Interculturel Familial et Social)とは、直訳すると、異文化間家族と社会の絆の協会というような意味になる。建物はコロナ禍で閉鎖中だった。入口には小さな張り紙が無造作に貼られて、ひらひらしている。6月25日の会場は下記住所のホテルに変更になったと記されている。張り紙のヘッダーには移民局(OFFI)とEUの移民や難民の支援団体(これも、あとで調べて分かった)、そしてALIFSの分かりにくいロゴとが並んでいるだけだ。3者がどういう関係なのかも分からない。見覚えがあるのは移民局のロゴだけだ。訪ねた日は7月1日だから、翌週8日の講座も同じ会場に変更なのか、何の情報もない。少々呆れたが、別に腹立たしいわけでもない。もともと、フランスの行政組織の対応が親切なものではないことは承知している。まして、コロナ禍の今ではこんなものだろうとの想像もできるからだ。

 

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開催会場の変更を告げる張り紙

 

とりあえずは、そこに指定された変更先を訪ねてみることにした。車載のナビは市内では信用できないので、スマホを頼りに徒歩でたどった。もたもた遠回りしてしまったが、意外と近くにあるホテルだ。ホテルには何の案内もないので、フロントで訊いてみると、確かにALIFSに会場を貸しているという。移民局(OFFI)の〜、と言っても全く通じない。借り主がALIFSだということしか知らないようだ。貸会議室で何が行われるのかについても何も知らないようだし、関心もなさそうだ。埒が明かないので、来週の水曜日(8日)もALIFSがそこを借りているか訊いてみると、予約表をめくって、確かにそうなっているという。事前に確かめに来てよかった。それにしても、移民局からは何の案内もない。まずは指定場所に行って、ひらひらの案内を見てから指定された変更場所に行けということなのか。ギリギリに到着したら、そこで変更先を知ったとしても絶対に指定時間には間に合わない。まあ当局側からすれば、頼んで移民として来てもらっているわけでもなし、自分で何とかしろということなのかもしれない。やれやれだ。

ついでに駐車場のことも訊いてみると、中庭にフリースペースがあるので、空いている限りはいつでも駐車できるという。嫌味はないがそっけない。

繰り返すが、イライラはしてはいないし、キレてもいない。

 

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ホテルの中庭にある駐車場への入り口。外からは中の様子が見えないので、駐車スペースが空いているかどうか全く分からない。

 

とりあえずはいろいろと確認できたので、近くのショッピングモールの地下駐車場に車を駐めて、市内を見て回ることにした。

最近は長時間の歩きは難しいので、ショッピングモールに入ってみたが、閉鎖中の店も多く、興味をそそられるものはなにもない。寿司屋もあったが閉鎖中だった。すぐ近くに、割と良さそうな美術館があったので、覗いてみようと訪ねてみたが、ここも閉館中。すぐ前のレストランで昼食をすることにして、マスクなしで座れるオープンスペースの席についた。見知らぬ街をかなり歩いたせいもあって、疲れがどっと出た。食事は印象に薄く、まったく記憶に残っていない。

 

ルルド (Lourdes

昼食に入ったレストランの目の前にバス停があって、有名な巡礼地ルルド (Lourdes)行きのサインがあった。調べてみると、ここから30kmちょっとのところだ。時間的にはまだ間に合いそうだし、ポーで見るべきものは何も期待できそうもないので、代わりにルルドを訪ねてみることにした。

ルルドに関する予備知識はほとんどなく、そこには奇跡の泉があって、その水で目を洗った盲目の人が視力を回復したとか、日本からも病を抱えた巡礼者が絶えない場所という程度の知識だけだ。普通の観光地と違って、物見遊山ではちょっと行きにくい感じも否めないが、逆にどんなところか興味をそそる。とりあえず、ナビを頼りに街まで行ってみた。狭い道をあちこち迷いながらも、日本の温泉街のような谷あいの街に到着。どこにその有名な泉があるのかもわからず、無料の駐車スペースを探して車を駐めた。小さな街だろうから、歩いてみればそのうち分かるだろうと、高台にそびえる見たところ一番大きな教会を目指した。

教会のふもとに着いてみると、街や泉の歴史に関する博物館が併設された岩壁の上に建つ大きな教会だ。ただ泉らしきものはどこにも見当たらない。

スマホの地図でそれらしきところを確認して、坂道を延々降りてゆくと参道らしき通りに出た。両側に土産屋がズラリと連なっている。日本の寺社参道の土産屋とあまり変わらない。どの店にも泉の水を汲むための特性のボトルが大小揃えてあるのが特徴といえば特徴だろうか。ただ、多くの店は閉まっていて、客もまばらだ。

おそらくは聖泉とつながると思しき川があった。聖泉という言葉から受ける先入観のせいで、そこには静かな小川を想像していたが、川は思った以上の急流だった。高低差があるせいか水力発電所まで併設されている。何か違う感じだ。ところが、橋を渡ると突然世俗から遠く離れたような広大な広場にでる。

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聖地の教会に続く前庭

そのはるか先には黄金に輝く教会のファサードが現れる。尖塔は補修工事中のようだが、膝をついて熱心に祈りを捧げる人があちこちにいて、独特の厳粛な雰囲気を漂わせているのだ。スマホを向けて写真を取るのは憚られる。僧衣をまとった聖職者らしき人々も、見るからに巡礼者としてここを訪れた風情で静かに歩いている。教会までの道のりはかなりありそうで、今日一日、いつになく歩き続けたNADIAはそこまででリタイアし、ベンチで私の帰りを待つという。せっかくここまで来たので、私は急ぎ足で回ることにして一人歩みを早めた。すでに17:00を回っている。

教会の手前、正面ゲートには守衛がいて、マスク着用を促している。意外とモダンな造りの黄金のファサードをくぐって教会内部に入ってみたが、ただの教壇があるだけで、そこに泉はない。こんな有名な聖地を何の予備知識もないままフラリと訪問するのは私ぐらいかもしれない。恐縮しきりだ。

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金色に輝く教会のファサード

一旦外に出て回廊風の通路を渡って裏に回ると、そこにやっと聖泉の湧く岩窟が現れた。黄金の教会はその岩窟の上にある頑丈そうな岩盤の上にそびえているのだった。

 参拝者はまばらで、祈りを捧げる人々にソーシャルディスタンスを促す地面の印が痛々しい。神父のような人がマイクを使って説明をしている。参拝者は見たところ観光客ではない。病の治癒を祈願する真剣な祈りにたじろいでしまい、早々にその場をあとにした。

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聖泉の湧き出る岩窟とその上にそびえる教会

少し離れたところに、自由に聖水を汲める水汲み場があって何人かがボトルに詰めたり、飲んだりしている。

本当は、ここはNADIAが来て水を飲むべきところなのだろうが、代わりに私が一口含んでみた。冷たくて美味しい水だが、水道の蛇口のような栓がずらりと並んでいる姿からは、あまりあり難みが感じられない。北海道の名水汲み場と変わらない風景だ。

結局、閉館間際にそこをあとにする。出口の守衛は、慌ててマスクをつけなおそうとする私に、構わないから早く出ろと促すのだった。

こうして、ポーとルルドのハプニング旅を終えたのである。7月1日のことだ。

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその6

006

■フランスの薬・薬局事情

私達のようにフランスに来た頭初から大量の薬を必要とする者にとって、フランスの薬事情には戸惑うばかりだった。妻は生粋のフランス人とはいえ、日本在住期間が半世紀近くなると、年に1回程度訪れるからといって、フランスの最近の制度の事情や背景がわかるわけではない。フランス語が自由だということと、制度や習慣がすぐに理解できることとは違うのである。単純な驚きや戸惑いは日本人のそれと変わらない。

私が彼女に対して発する「なんで?」とか、「何のために?」とかの質問に答えられた試しはない。「フランス語で書いてあるだろう?」とかの無神経なイライラ質問にストレスは増すばかりだという。

 

フランスでも医者から処方箋を出してもらって、それを薬局に持参し、購入するという基本は日本と同じだが、医薬分業のコンセプトの違い、制度や文化的発想の違いなどを理解するまでは、驚いたり、呆れたり、摩擦の連続である。

1年近く毎週のように医者と薬局に通った末に、ようやくわかったことがいくつもあるのだ。

一つは薬に対する医者と薬局(薬剤師)の基本的な立ち位置の違いである。

フランスでは、同じ薬でも純粋にその効能を特定する原薬品名と、その原薬品を違う名称で表す複数の商品ブランドとが存在する。医者は原薬品名を使い、薬剤師は商品ブランドを使うと言ってもいい。

厄介なことに、その名称が同じ場合と違う場合がある。二重ブランド化していて原薬品名が小さく併記されていたりするのだ。フランスの薬剤師は複数の商品ブランドの中から、売りたいものを自由に選択して提供する権限があるのだという。

薬剤師は単に医者の指示に従うだけではないのだ。薬品販売事業者として利益を追求する独立した権利が与えられている。ジェネリック医薬品の指定権限も薬剤師に与えられている。具体的に薬の商品ブランドを指定することに関しては、医者よりも強い決定権を持っている。

したがって、医者の処方箋に書かれた薬品名(原薬品名)と、薬局から渡される薬のパッケージに記されている薬品名(商品名)とが異なっている場合がよくあるのだ。事情を知らない間はそのたびにパニックになったものだ。 薬を手渡される時、一応中身の薬品名を確認してはくれるが、10種類を超える耳慣れないフランス語の薬品名を口頭で聞かされても右から左へ抜けて行く。領収証は処方箋の裏に小さな文字で印字されているから、後で突き合わせて確認するのも簡単ではない。その上、時々入れ間違いもあるから、そのたびに薬局へ戻り、再び並んで待った上、再確認して替えてもらう。何度もやっていると、間違いや勘違いはこちらにも出てくることがある。NADIAは一時期、薬局恐怖症になってしまった。

 

一方、日本の暗黙の常識では、薬剤師は医者の下に位置づけられているから、薬剤師は医者の指示に絶対的に従うのが当然と思ってしまっている。薬局の役割は、医者の処方を細かく整理分類して受け渡すためだけのところだ。したがって、窓口でいちいち症状を聞かれたりすると、つい鬱陶しい思いにかられてしまう。余計な問答で、わけのわからないコンサルフィーを上乗せしているのだろうと、勘ぐったりもしてしまう。

日本では処方箋と受け取る薬の名前に違いが出るなどということは、ジェネリック薬以外ではありえないことだ。それが常識としてしっかりと刷り込まれているのだ。

要は我々に刷り込まれている先入観が邪魔をして、日本とフランスでの医者と薬剤師の立ち位置の違いに、全く思いがいたらないということにも問題があるのだ。

 

2つ目の違いは、薬局(薬剤師)が担うサービスの質だ。フランスの薬剤師は、いわば高度な専門知識を持った販売事業者であって、医者の処方をもとに製薬メーカーを選び、メーカーでパックされた箱の内容量が処方の必要日数を満たすように取り揃え、手渡して清算するまでの仕事だ。いわば効率と利益を求める流通業者である。見ていると、ハンバーガーショップマクドナルドの店員と動きが変わらないと思えるときがある。薬の効能や副作用についてはもっぱら医者が説明するもので、もちろん質問すれば薬剤師も答えてはくれるが、医者から聞いたことについてもっと知りたければ、薬のパッケージに収められている説明書を自分で読むことになる。

それに引き換え、日本の薬局(薬剤師)は、もちろん利益を求める販売業には違いはないが、どちらかと言うと患者側に立った“調剤サービス”をする場というイメージが強い。薬局が創意工夫して作る服薬指示書には、各薬をばらしてわかりやすいカラー写真にし、服用方法や副作用までが、きめ細かに示されている。お薬手帳なども、いつ何をいくらで購入したかがわかる、患者にとっても便利な記録帳だ。これらのありがたみについては全く理解されていないと言える。日本にいた頃は私自身もそうだった。おそらく、長いこと医薬の分離がされていなかったために、医が提供するサービスの下請けとして捉える傾向があって、今必死でサービス競争をしているのだろうというぐらいの認識だった。

 

フランスの薬局における最大の驚きは、薬の箱売り制だ。商品パッケージごと開封せずにそのまま渡される。各パッケージは、薬ごとに内容量もバラバラだ。私達が手にしたものだけでも、薬によって10個入に14個入、15個、20個、30個、50個、60個、100個入と千差万別だ。これ以外に水に溶かして服用するタイプや、スポイト式瓶入りの液体薬など、なぜこんな形態や個数になっているのか見当もつかないもので溢れている。

例えば、医者の処方が、毎朝食後2錠、1週間(7日間)の服用とあったとする。14錠必要だ。薬局での箱売り商品が、14錠入りでなく、10 錠入りだとすると、それを2箱出してくれる。6錠分無駄な費用を払うことになる。ひどいときは1ヶ月31日分のために、30個入2箱などということもあると聞いた。

いかに多くの無駄が、薬品業界の利益として垂れ流されていることか。消費者の方は、国営の保険制度と民間の保険制度の組み合わせによって、ほぼ毎回の直接支払額はゼロだから、感覚が麻痺しているのかもしれない。この歪んだ構造を是正するのは並大抵のことではないだろう。日本でも、風邪薬として意味のない抗生物質が大量に処方されている現実が告発されたことがあったが、どの国でも巨大な金が動く業界の闇は深い。

しかし、私達には社会問題を云々している余裕はない。毎日の薬の調達は命がけの差し迫った問題だ。1週間で終わる程度の服用ならまだいいが、今現在でさえ、12種類の薬を、1日8回に分けてそれぞれ指定数づつ飲み分けなければならないのだ。しかも途中で服用方法が変わることはあっても、ず〜っと飲み続けなければならないことは変わらない。

この大量の常用薬をきめ細かく整理する体制を、箱売りシステムにすり合わせて行くことが、一般の個人にとってどれだけ大変なことか、想像できるだろうか?

泣き言を言っていても始まらないので、独自の薬配給システムを、試行錯誤を重ねた末に何とか作り上げるしかなかった。箱からすべての薬を取り出して、各服用時間ごとに並べ、それを曜日別に1週間分の薬整理用ピルケース7個にセットする。ピルケースは日本から持ち込んだものだ。1日分の箱の中仕切りは4つしかないから、8回分の仕分けはそれだけでも簡単ではない。1週間分の薬をセットするには、かなり慣れた今でも小一時間はかかってしまう。整理表は薬の種類と用法をマトリックスにしたもの。薬の残量と新規購入ないし医者の処方が必要になる予定日を毎回修正して書き記せるもの。そして曜日ごとに服用時間別に薬を並べて、ピルケースに落とし込む前の準備用台紙の3枚が必要だ。これも何度かやっては修正を繰り返してやっと最近落ちついたものだ。

 

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必要が生み出した自己流の薬の配給整理システム

先日、検査入院の際に、毎日の常用薬を持ち込む必要があった。コロナの影響で入退院時以外は付添は入館できないが、この薬配給整理システム用紙を一緒に持ち込んだところ、看護師にえらく感心されたという。

ついでに持ち込んだ、錠剤を半分に切断するカッターにもお褒めをいただいた。

 

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日本製錠剤カッター

日本にいた頃、薬局に相談して取り寄せてもらった、確か数百円程度のプラスチック製の小さなカッターだ。こちらでは看護師でさえ、ナイフやハサミを使い、毎回飛び散った半かけ錠剤を拾い集めるのだという。

 

こうやって、実体験してみると、日本の薬局制度のありがたみが身にしみる。

日本にいた頃は、あまりに当たり前で、その“神”対応の素晴らしさに全く気づかなかった。むしろ、対応に時間がかかりすぎるとか、明細の項目が不可解だとか、文句のほうが多かったが、今や全く認識が変わってしまった。

日本の薬局で調剤に時間がかかるのは、私が今やっているような緻密な分類を、薬剤師が奥の見えないところで、黙々と対応してくれていたからなのだ。

処方に足りない薬があると、不足分は薬局負担で郵送してくれる。御殿場の薬局で薬に不足があったときは、わざわざ車で、山奥の別荘まで直接届けてくれたことさえあった。フランスでそんな対応はまず考えられない。

今後も日本のその体制はぜひ続けてほしいと心から願うところだ。

 

ただ、こちらの体制にも慣れて落ち着いてくると、他の側面も見えてくる。日本では、店舗を構える接客業は基本的に「お客様は神様」対応が良しとされる。顧客第一主義という文化的伝統もあって、客の方はそれが当たり前となると、いつしか上から目線で態度も横柄になりがちだ。献身的奉仕精神の反対側に対峙する影の部分かもしれない。

日本の薬局店頭での客(患者)の基本的態度にもそういうところがあって、医者に対する態度とは正反対だ。

私は日本にいたころからその感じが嫌でしようがなかった。居酒屋でもコンビニでも、なんで客は店員に対してそんなに偉そうなのかわけが分からなかった。店に利益をもたらすためには、仕方ないことという暗黙の了解が、客にも店側にもあるのかもしれない。無意識のパワハラといってもいいのではないか。

薬局に限らずフランスでの接客業を日本のそれと比べると、違いは大きい。

フランスには顧客の方が店員より偉いという感覚がまずない。お互いに家族を持つ生活者として、尊重すべき人格を持つ対等な人間同士という感覚が前提にある。だから、名前は知らなくても家族の話や病気の話などお互いによく喋る。後ろで待つ人も別に文句も言わずに待っている。大型スーパーのレジでさえ、おしゃべりに花咲くときがある。もちろん勘違いしたスノッブな輩もいないわけではないが、そんな人間はあからさまに嫌われる。特に私の住むこのあたりでははっきりしている。

考えてみると、この感覚の原点はやはり、市民革命の基盤である人権宣言に基づく国是「自由、平等、博愛(友愛)(Liberté, Égalité, Fraternité )」にありそうだ。多くの血を流して専制君主の圧政から個人の権利をやっと勝ち取ったのに、たかが客の立場ぐらいで偉そうにされてはたまらない。社会的に必要とされるサービスは目の前の店員ではなく、社会制度によって、それぞれの専門家が担うべきなのだ。実は調剤の面倒な整理は多くの老人や社会的弱者にとって、深刻な問題であることは周知のことだ。ただそれを補うのは薬局の店員ではない。ソーシャルワーカーとか、市役所の担当職員の役割だ。つまり税金で、皆で負担を分かち合うのであって、店員の献身的サービスで補うべきものとは誰も考えていない。市役所の相談窓口に行けば、調剤の負担軽減にもかなり具体的に対応してくれる。一方パリの高級ホテルやレストランでの、かゆいところに手が届く顧客サービスには、それ相応のチップが払われる。滅私奉公とはわけが違うのだ。

私は、日本の生活が長かったせいもあるが、こと薬局の基本的体制については圧倒的に日本の制度のほうが優れていると思う。少なくとも患者側からみれば感動的に優しいシステムだ。もし、日本的対応をする薬局がこちらにオープンしたら必ず大きな成果を上げるとも思う。ただ、対応する店員側の精神的、肉体的ストレスについては日本にいる時には考えたことがなかった。こちらに来て、日本のサービスを受ける側の心地よさを感じると同時に、提供側のストレスも理解するようになった。

ここには、根本的に違う文化的背景があることだけは確かであり、フランスの薬局が日本的な体制に変わることは決してありえないだろうとは思うのである。

 

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその5

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スマホを買う

 

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スマホが手元にないと、今や生活は全く成り立たない。

デジタルトランスフォーメーションが日本よりもはるかに進んだフランスではなおさらである。統計上の国全体の普及率がどうなのかはよく知らないが、私の生活圏での実感からいうと、ほぼ全員が持っている。

プライベートな使い方だけでなく、コロナ禍による自宅待機命令下での外出証明などもスマホ上のフォーマットに書き込んで所持する。街角で警察から尋問された際はそれを提示する。警察もスマホを持っていて、こちらのスマホからQRコードを読み込んで身元や証明の中身を確認するという具合だ。

 

ここまで生活の奥深くまでに浸透すると、つい移動通信事業黎明期を思い出す。

日本で最初の小型携帯電話「mova」のブランド開発に携わったのは、NTTドコモ誕生のおよそ1年前だ。翌年1992年の移動体通信事業のNTTからの分離独立が内ないで決まっていた時期だった。当時は大変なセンセーションだったが、movaは単なる小型無線携帯電話機だ。船舶電話の技術が自動車電話に展開され、その延長線上にあったのが携帯電話で、どれだけ街なかのアンテナを増やし、どれだけ長持ちする小型電池を開発するかが、当時最大の技術課題だった。

 

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フランスではそのころミニテルという、日本のキャプテンシステムと同様のビデオテックスシステムを開発し、普及のために電話帳と同じという謳い文句でデバイスを全戸にタダで配るなどして、一時はかなりな普及ぶりだった。

 

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 フランスのビデオテックスMinitel

 

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日本のビデオテックスCAPTAINのロゴ


しかし、電話の進化系という発想から抜け出てはいなかったし、電話回線を使った、いわゆるパソコン通信の範疇だった。今やそれも見事に消えてしまった。今から思うと、国境の内側だけで完結しようとしたシステムは世界でも何一つ残っていない。

 ただ、双方向の音声や画像をできるだけ早く、鮮明にかつ廉価に提供しようとした様々な技術的試行錯誤があってこそ、今のスマホ時代を迎えることができたといえるのであろう。

 

いずれにしろ、インターネットがこんな展開にまで発展するとは全く思われていなかった時代だ。それからおよそ30年経った今の状況は想像を絶する世界だ。当時様々な移動体通信の未来予測も研究したが、今のような世界観を予測できていたものは何一つなかった。この先も、5G、6Gと進んでゆく先の世界は想像を遥かに超える。

レコミュニティーという世界観の提唱もあったが、それは、身の回りの物理的に近いところでのコミュニティーに代わって、趣味とか共通の興味、信条などをもとに空間を超えてつながる新しい人間関係の世界を指していた。もちろん、テレコミュニケーションシステムが実現する世界だ。概念としては、ネット内のコミュニティーを言い当てていたとも言えるが、あくまでも大ぐくりの社会に関する概念であって、産業構造や日常生活の大変革にまで踏み込んだ世界観の提示にまでは至ってはいなかった。

 

綾小路きみまろ風に言えば、あれから30年。今や会話の最中でも、ちょっと不確かな話題になるとすぐに各人サクサク検索してそれを確かめる時代だ。最近はフランスで食事に招待されても、皆右側のナイフの外側にはスマホがある。レストランでも同じだ。食卓の風景はすっかり変わってしまった。もちろんそんな状況を嘆く人もいるが、私の周りでは70歳ぐらい以下では皆スマホを片時も離さない。孫の話題になれば、皆一斉にスワイプして動画を見せ合い、孫自慢が始まる。記憶力に陰りが感じられる我々世代には、老眼鏡並の必須アイテムだ。

考えてみると、記憶力自体の能力差は以前ほど重要ではなくなった。覚えているかどうかより、その情報からどんな発想や独創的な想像力を展開できるかが重要だ。むしろどう検索するかの能力差こそが試される。

しかし、今でも試験会場へのスマホ持ち込みは禁止されている。むしろ今は解に近づくための検索を組み立てる想像力こそが試されるべき時かもしれない。スマホを試験会場に持ち込んでも、量的知識のデータベースは平等にあるはずだから、もっと高い次元の能力を試すことができるのではないか。試験会場へのスマホ持ち込みなど全く構わない時代のような気がする。

 

さて、フランスに来て、真っ先に片付けるべきことは何よりもインターネット環境をまず整備することだ。こちらでは、TVや固定電話、Wifiをセットで契約すると日本に比べてかなり格安な通信環境が構築できる。およそ月80~90€1万円前後で数十チャンネル(数えたことがないので未だに実数は掴んでいないが、もっと多いかもしれない)のTVが視聴でき、基本、固定電話からの国際電話もかけ放題になる。

Wifiにつなげておきさえすれば、羽田で解約したスマホでもドコモの通信機能以外は使えるし、Google検索もFacebook やLINEも使えるから、当面は不自由はない。持ち歩くことがなくなったMacBook Air もサクサク使える。

しかし、一歩Wifi圏外に出ると突然不自由になる。 街なかの無料Wifiはセキュリティにも不安がある。やっぱり新しいスマホを買おうと大型ショッピングモールBAB2内にある、フランス最大のキャリア、オランジュ(Orange)のショップへ行った。ブティック・オランジュ((Boutique Orange)という。

 

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ショッピングモール内にあるブティック オランジュ

オランジュは元フランスの国営電気通信企業フランステレコムが民営化されてできた会社である。ブランドはイギリスの携帯キャリアを買収して会社名にしたものだ。オランジュは英語オレンジ(Orange)のフランス語読みである。我が家のブロードバンドインターネット接続がオランジュだから、ショップ選びに躊躇はなかった。

 店内に入るためには、外の通路に並んで待つことになる。フランスでは、パン屋でもアイスクリーム屋でもまずは並んで待つのが普通だ。原宿に私の事務所があったころ、いろんな店に若者がずらっと並んで待つ風景が日常だったが、フランスでは大人も老人も皆辛抱強く並んで待つ。コロナ禍の今は、全員マスクをつけて、1mおきにつけられた印に沿って遠くまで並ぶのだ。これがニュースタンダードといわれても、異様な光景である。

 我々が訪れたころは、ちょうどiphone10が売り出されてすぐだったので、店内はそのプロモーションでいっぱいだった。日本ではiphone6Sを愛用していたから、別にそんな最先端機種でなくても構わない。担当のお兄さんと相談したら、まあせっかく新機種に買い換えるのだから、ちょっと前に発売開始されたばかりのiphoneXRが型落ちになって安くなったので、それはどうだと勧められた。Iphone 10に比べればいろいろ能力の差はありそうだが、6Sと比べれば格段に進歩している。躊躇なくそれに決めた。

そもそも私には技術的な評価能力がないし、WEB上の胡散臭いおすすめ記事も素直には頭に入らない。目の前のアフリカ系の落ち着いたお兄さんの勧めに乗って即断した。

本体価格は1台€234.89(≒28,200円)。表面のプロテクターシールは€34.99(≒4,200円)とちょっと高い。しかも、こちらの土足用に造られた室内のタイル床に落としてすぐにヒビが入ってしまった。ソフトシールにすべきだった。月々の料金はたまに若干のプラスが出ることがあるものの、だいたい1台あたり€62(≒7,440円)。日本で払っていた月々の料金に比べると半額だ。

使い方自体は日本とそんなに違わないが、新しいソフトでは万歩計と、車のナビ、それとLINEのビデオチャットの使用頻度が増えたかもしれない。

YouTube等、日本のさまざまな情報にも、いつでもどこでもアクセスが可能になった。こうしてフランスにおけるICT環境は整った。結局TV、固定電話以外にデバイスは新しいスマホ2台、東京で使っていた室内限定スマホ2台にiPad1台、MacBook Air2台がラインアップされた。新たに買い揃えたEPSONのスキャナー・プリンターと、首が上下に伸び縮みする大型モニターECRANとともにハード機材は一通り揃ったのである。

ただ、東京でスタートアップ事業を運営する長男の話などを聞いていると、単純な連絡機能に使っているアプリの名称さえ耳新しいものばかりだ。どうやらすでに先端にはついて行けていないことを自覚せざるを得ない。黎明期を切り開く役割に携わったものとしては、若干の寂しさも否定はできないものの、想像を超える進展は、大きな喜びに違いない。