国際カップル半世紀、全身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその16

■時間感覚「今」

フランス、ビアリッツ(アングレット)に来て早くも1年と1ヶ月以上が過ぎた。

光陰矢の如しとは、このことだろう。

ちなみに、英語の「Time flies like an arrow」を、以前、自動翻訳アプリで、日本語への翻訳を試してみたところ「時間蠅は、矢が好き」と出て、唸ったことがある。

この「時間蠅」が私に執拗につきまとう一年ではあった。

 

振り返ってみれば、日本にいた時にも、いつも時間の移ろいの速さを嘆いていたような気がする。「今年もバタバタしていて、気がついてみればもうこんな時期になってしまいました」とは、久しぶりに出すメールの枕ことばだった。しかし、こちらに来て気がついたことは、時間の移ろいの速さだけではなく、時間そのものの感覚を呼び覚まされるとでも言おうか。「今この時」を感じさせられることが多いような気がする。

f:id:takodajima:20201112041103j:plain

玄関の鏡の前においてある逆進時計。

この「今」の「時間」が気になる理由はいくつかある。

一つは時差。日本との連絡や日付についても、どうしても、日本との時間差がいつも気にかかる生活が続くのだ。「今」は東京では何時だろうというのは頭から離れない。まだ軸足の片方は東京にあるのだろう。

メールやFB、ブログなどもほぼ日本語だから、投稿時間が向こうの何時になるのかは気にならないわけはない。特に電話をするときには、相手がNew Yorkであれ東京であれ、まずは時差アプリのお世話になる。あと1〜2年もすればそれも気にならなくなるかもしれないが、今はそんな生活だ。

 

もう一つは、夏時間と冬時間の変換のたびに、昨日までの6時って「今」の何時だっけ?と問い直す日々が、特に10月の最終日曜日以降と、3月最終日曜日以降のしばらくの間は続くのだ。

特に食事時間はかなり狂ってくる。

そもそも夕食時間は日本に比べるとかなり遅い。8時9時からのスタートは普通だから、これが1時間後ろにずれることになると、夏時間で言えば10 時開始ということになる。会食ともなれば2時間3時間は普通だから、「今」は数日前の夏時間だと何時だっけ?とはいつも気になってしまうのだ。

この夏冬の時間調整は、緯度的にかなり北に位置するヨーロッパならではの制度だ。夏と冬での日照時間の差が極端なのだ。ストックホルムあたりまで北上すると、6月の夏至の頃には夕焼けと朝焼けが続いてしまう。50 年も前の経験なので記憶は薄らいではいるが、午前2時過ぎには外で新聞が読めた覚えがある。逆に冬はほとんど日差しがないまま1日が終わる。なるほど、金髪碧眼はここから生まれたのかと思ったものだ。まだ肌寒い6月でも裸で太陽光を貪るように浴びる彼らの習性も、ここに起因するに違いない。

つまり、夏イコール太陽であり、長期のバカンスを取り、南フランスやスペイン(日本では北海道からせいぜい伊豆あたり)で、昼には目一杯太陽を浴び、夜は12時近くまで食事を楽しむというライフスタイルが生まれたもとがここにある。

ストックホルムから見れば、ここビアリッツはかなり南に位置する。緯度でいえば、地中海のマルセイユとほぼ同じ北緯43.2〜3度あたりだ。気温的にも温かい気候なのだが、日本でいえば、なんと北海道の小樽と同じ、札幌よりもほんの少し北にあたる。ちなみにパリの緯度は北海道から遥かに北上して樺太の真ん中からもっと上あたりだ。

札幌生まれの私でも、ここビアリッツがあの札幌と同じ緯度だと言われても全くピンと来ない。

ただ思い出してみると、ナイター設備のなかった時代の札幌の山あいのスキー場では、午後4時過ぎにはリフトは止まっていた。冬の日照時間がここビアリッツあたりと変わらないといわれてみれば首肯けないこともない。

 

もう一つ、これはかなり私の個人的な性分なのだが、子供の頃から時間的な「今」という概念が不思議で仕方がなかった。

「今」と思うこの瞬間がすぐに過去になり、何年か後に「あの時」となることが不思議で不思議でしようがなかった。

確か小学校6年生の春だったと思うが、私の時間の最先端「今」の瞬間をずっと記憶しておこうと思い立ったことがある。

当時、札幌の国鉄職員官舎は和式トイレだった。木造だったので、トイレの内装も全て木造りだった。目の前の床に接してくもりガラスの小さな明り取りの引き戸があって、周りには縦板がはめ込まれていた。目の前の羽目板にはいつも見慣れた特徴のある横流れの節目があった。私はその特徴ある節目をしっかりと記憶に焼き付けることを決意した。どこで何をしているか分からない未来に、この瞬間を思い出して時間をつなげてみたいと思ったのだ。

20年ぐらい前までは、時折その時を思い出してはその節目模様を再確認することがあった。あれから60年以上が経って、最近ではさすがに節目模様も不鮮明になってしまったが、そのときの思いだけは鮮明に覚えている。ただ未だに「今」の謎は解けてはいない。

そんな性癖のせいもあって、フランスに来てから「今」を意識する機会が増えたのかもしれない。

 

こちらに来てから気が付いたことの一つに、イギリスとフランスで1時間の時差があることだ。冬時間設定のときに初めて気がついた。

ロンドンとパリの経度はおよそ2度しか離れていない。日本で言えば東京と名古屋の手前豊橋市ぐらいの経度差でしかない。

それで1時間の時間差があるのだ。

そもそも、標準時を設定し、世界的にこれを管理するという発想自体が覇権主義的で欧州的だ。世界中のどこの都市でも太陽が真上に来たときが正午のはずなのだが、グリニッジ標準時を起点として、東西どちらに向かっても経度で15度ごとに1時間違うことが当たり前と思わせてきた。英国が世界の覇権を握っていた時代にできた世界標準だ。

ところが、時間の世界標準設定などしょせんは極めて人為的なものだということがよく分かる事例が、ヨーロッパのど真ん中にあるのだ。

現在フランスも所属しているヨーロッパ中央時間(Central European Time - CET)は、第二次世界大戦時にドイツが占領した領土にドイツ時間を適応したことが元になっている。したがって、英国はこれから外れているのだ。グリニッジの本初子午線など完全に無視されている。

f:id:takodajima:20201112041245p:plain

子午線など完全に無視されて設定されているヨーロッパの標準時間


 

少し調べてみると、本初子午線の起源は紀元前にまで遡る。その後のヨーロッパの歴史を通じて覇権国ないしは自己主張の強い国が自らの子午線を真ん中にして地図の標準を定めてきた。しかし、全世界の海図の標準形を創る覇権は、17世紀から19世紀にかけて、フランスとイギリスの間で激しく争われた。

 

始めは、1634年、ルイ13世時代のフランスが独自の子午線を地図の基準とすることを決定した。本初子午線は海洋上の島に設定したが、パリを標準時間の中心に据えたのだ。

一方海洋貿易が全盛期を迎えた17世紀後半を生きた英国王、チャールズ2世もまた経度の測定法を重要な課題として認識していた1人であった。

チャールズ2世は愛人であったフランス人女性を通じて、フランスでは月とそのほかの星の位置関係から、経度を割り出すことができるという話を聞き、天体の研究を直ちに開始するよう命じた。その王立天文台を設置する場所として選ばれたのが、ロンドン郊外のグリニッジだった。1675年、チャールズ2世のお膝元にある一番見晴らしの良い丘の上に作られたのがグリニッジ天文台だったのである。

その後、海洋貿易の中核には長く英国が君臨し、英国が主導するグリニッジ標準時が事実上の世界標準となる。

この結果、1884年の国際子午線会議によって、グリニッジ子午線が本初子午線として採用されることになった。しかし、プライドの高いフランスはこの採決を棄権している。

とはいえ、時代の趨勢には逆らえず、1911年にはフランスも、全ての暦にグリニッジ時を標準とすることの決議に賛成した。こうして、 1913年からは全ての国の標準時はグリニッジ時間による事になったのだ。

ところが世界の覇権にまた大きな変化が訪れる。アメリカの台頭である。人工衛星による位置測定システム「TRANSIT(GPSの前身)」を用いてより正確な位置情報を整理し、首都ワシントンを基準として世界の子午線を測り直したのだ。1969年にグリニッジ子午線の位置を測定したところ、およそ102m東にずれた子午線を本初子午線としていることが明らかになった。

このときから、主導権はアメリカの科学技術に委ねられることになり、今は、原子時計を元に算出される時間を標準とすることが協定で決められて「世界の標準」はグリニッジ標準時GMT)ではなく「協定世界時Universal Time Coordinated (UTC)」とされている。実態はUTCGMTにあわせて修正しながら使っていると言える。実際の地球の自転の速度は微妙にズレを生じるが、原子時計というのはほぼズレない。したがって、その差が0.9秒以内に収まるように常に調整されているという。

日本もフランスもこの原子時計を使っていて、本初子午線は国際慣習上、今でもグリニッジに置かれているが、事実上は国際的に連動している原子時計が主導権を握っているのだ。

以前、旧郵政省時代に小金井市にあった付属電波研究所で本物の原子時計が予備と一緒に2台並んで同時稼働しているところを見学したことがある。当時で世界1精度の高い時計で、地球の自転の誤差に合わせて時々修正するのだと聞いた。現在では、情報通信研究機構に変身し、さらに性能の良くなった原子時計を日本各地に分散管理しているという。

現在のように超精密に時間が管理されている状態では、協定世界時Universal Time Coordinated (UTC)から+1とかー5とかで各地の標準時を決めればいいだけで、±0をグリニッジに設定しているだけだ。したがって、ヨーロッパで英国時間(グリニッジ時間)に同調しているのはポルトガルだけ、他のEU各国はナチス・ドイツに起源のある中央ヨーロッパ時間を基準にしているのだ。

 

コロナ禍による外出禁止令の「今」、「時間」にまかせて、「時間」「今」を掘り下げていくと興味は尽きない。これにアインシュタインの相対性原理による時間の伸縮や、生物個体の大小による時間の違いなどを盛り込んで考察していくと、「時間」がいくらあっても足りないのである。

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその15

■フランスの理念と現実:「冒涜する自由」

 先月、パリ郊外で中学の歴史教師サミュエル・パティさん(47歳)が首を切断されるという凄惨な事件が起きた。

犯人はロシア国籍で18歳のチェチェン系難民の男性。その後、犯人はすぐに駆け付けた警官にその場で射殺された。エアガンを警官に向けたというから、自殺に近い。

私はすぐに、今年の7月に県庁所在地ポーで受けた市民講座la formation civique )のことを思いだした。市民講座とは移民の同化政策の一つで、フランスの国是、法律や各種の制度、文化等の集中研修制度だ。年々厳しくなり、現在では1日8時間、計4日間を費やす。受講者の多くはアラブ語圏からやってきたイスラム教徒だった。難民も多く、おそらくはこの犯人も同じ講座を受講していたに違いない。

その講座の中で、もっとも熱心に解説されたのが、ライシテ(laïcité)だ。政教分離無宗教主義を意味する。イスラム教徒の多い移民に対しての、重要な教宣活動なのだろう。いかなる宗教も優遇せず、公共の場に持ち込ませない代わりに、信仰の自由などの権利は平等に保障するという原則だ。例えばキリスト教徒の学校教師や病院の看護師だとしても、職場での十字架のペンダントをつけることすら禁止されていると説く。学校、病院等公共的施設には特定の宗教を示唆するようなものは一切掲げてはならないのだ。だからイスラム教徒も学校ではスカーフで顔を覆ったりはできない。ただし公共の場以外では、信仰の自由は保証されているので、どんな信仰も自由なのだという話が、かなりの時間を費やして強調されたものだ。

その犯人はどんな気持ちでそれらの話を聞いていたのだろう。おそらくは全く共感など得てはいなかったに違いない。私と同席していた、あの難民たちはどう感じていたのだろうと改めて思いをめぐらした。少なくとも、私のように「面白い」とは感じてはいなかったに違いない。

以下、ネットニュースに載った事実部分をコピペしながら考えてみたい。

この事件の遠因は2015年1月に、パリの風刺週刊紙シャルリー・エブド」本社にイスラム過激派が乱入し、編集長、風刺漫画家、コラムニスト、警察官ら合わせて12人が殺害された事件にある。

f:id:takodajima:20201102225038j:plain

シャルリー・エブド」の風刺画     出典)Flickr; Fanden selv

シャルリー・エブド」自体はもともと記事が下品で、フランス国内での評判も悪く、なかば潰れかけた出版社だった。ところが、ことが「表現の自由」というフランス革命以来の国是に関わる問題だけに、大きな議論を呼んだ。

表現の自由」自体は1789年に出された人権宣言11条によって保障されている。 「第11条(表現の自由) 思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、すべての市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる」 。しかも人権宣言では「宗教を冒涜する自由」も認められたのだ。 「第10条(意見の自由) 何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の株序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない」 。それまでは、カトリックを冒涜することは、牢獄送りか、死刑だった。

しかし、革命により、「宗教の冒涜は死に値しない」権利を勝ち取ったのだ。ただその後、ナポレオン時代には検閲が再開し、王政復古の時代の1830年には出版の自由が停止されることになる。それらの歴史を乗り越え、一度廃止された「宗教を冒涜する自由」が復活し、ようやく第三共和制下の1881年に「出版は自由である」と定める法律が成立した。

少なくとも、権威や宗教を冒涜する自由は「法律で禁止することはない」という原則が出来上がっている。多くの血を流して勝ち取った、譲れぬ理念なのだ。

 

 

シャルリー・エブド」の事件を受けて、全国の中学校では「表現の自由」の理念についての授業が行われるようになり、サミュエル・パティ教師もその時の風刺画を教材として使ったという。一般のフランス人にとってはごく自然な帰結と映るはずだ。

ただ、生徒の中にはイスラム教徒の子弟もいるので、教師は、授業の前に、気分を害されると感じる生徒は教室から出ていってもいいと告げたというから、イスラム教徒に不快感を与えることは十分予想していたことになる。

事件の発端はその時退出した生徒の親が、SNS上にそれに対する非難を、先生の名前入りで載せたことから始まったらしい。

 

このショッキングな事件の反響は大きく、マクロン大統領はイスラム教モスクへの監視強化やサイバー上のイスラム過激主義を取り締まる構えを示し、フェイスブックツイッターなどネット企業の代表を呼び、協力を求めた。

フランス全土でイスラム原理主義に反対し、表現の自由を守るという市民デモが相次いだ。

フランスではイスラム教徒の生徒が男女一緒の水泳授業を欠席したり、教員の指示を拒否したりなどの校内トラブルが相次ぎ、今年3月までの半年間で900件以上が報告されたという。

国内のイスラム人口は8%を占めると推計されていて、国民育成の現場である学校にイスラム主義が広がることへの危機感も強く、それがパティさんへの国民的な共鳴につながった。

一般のフランス人の素朴な感情では、我々はフランスの価値観を守りたいのであってイスラム教を否定しているわけではない。どうしてもイスラム教の教えがフランスの価値観と合わないのであれば、自分の国に帰ればいいではないか。というものだ。

しかも世界で起きているテロ事件の大半はイスラム原理主義者によるものだ。一般国民がイスラム教徒を忌避する風潮はわからないでもない。

しかし、ことはそう単純でもなく、そもそもフランスがイスラム教国を植民地にしてきた歴史に遡る。植民地が独立した後には、圧倒的に経済力が優る旧宗主国イスラム教国から移民、難民が押し寄せた。それをこれも国是である友愛主義によって受け入れ、政教分離の原則で容認してきた歴史がある。そして、イスラム教徒が多く溶け込んでいる先進国に、イスラム教国からの新たな難民が押し寄せることも、ある意味わかりやすい。自分で蒔いた種とも言えるのだ。

マクロン大統領は教師の追悼集会(国葬に近い扱いだった)で「フランスは風刺画や漫画を決して諦めたりしない」「パティさんはフランス共和国を体現したから殺された」「パティさんのような静かな英雄がいる限り、私たちの未来を奪うことなどできない」と語った。

ある意味、相手を逆なでする傲慢な言いようだ。

 

こうなると、当然のごとく、イスラム教徒の反発も大きく、イスラム教国ではフランス製品のボイコット運動やフランス大使館襲撃事件が相次ぎ、フランス各地の教会を狙ったテロ事件もあいついだ。

トルコのエルドアン大統領は、 フランスのマクロン大統領には「精神の治療が必要だ」と発言。フランスは在トルコ大使を召喚し、「シャルリー・エブド」はエルドアン大統領の下品な風刺画を掲載するなど対立はエスカレート。

マレーシアのマハティール元首相までもが「イスラム教徒にはフランス人を殺す権利がある」とツイッターTwitter)に投稿した。フランス政府からの猛抗議を受けて、投稿は削除したが、反対側から見れば全く見える風景が違うことを示している。

 

日本人にはピンと来ないという方がいるかも知れない。しかし、フランスでの風刺画表現は、日本にも及んでいる。

最近、フランスの週刊紙カナール・アンシェネが、2020年の東京五輪開催と東京電力福島第1原発の汚染水問題を絡めた風刺画を掲載した。福島第1原発を背景に腕や脚が3本ある力士が土俵上で向かい合い、防護服を着たアナウンサーが「フクシマのおかげで、相撲は五輪競技となった」と実況している様子が描かれるという非常識な内容だ。

ただ、日本の報道は週刊紙カナール・アンシェネがどんな性格の出版社なのかも、書いてある内容にも触れていない。日本政府もちょっとだけ抗議の姿勢はしめしたが、本気ではなかったようだ。本気で渡り合ったら、相手の思うつぼ、逆に原発処理の暗部がさらされて、やぶ蛇だったかもしれない。

また、仏国営テレビ「フランス2」の番組が、サッカーのフランス代表との親善試合で活躍した日本代表GK川島永嗣選手の腕を4本にした合成写真を映し、司会者が「福島の影響」などとやゆしたことも記憶に新しい。この場合は日本大使館からの厳重抗議に対し、同テレビ局は謝罪したが、法で裁かれるようなことではないという態度は一貫している。

確かに、世界中に十数億人の信者を持つ宗教の始祖を、何もわざわざ侮辱することはないだろうとは多くのフランス人も私も思っている。予想される結果を考えても愚行にも程がある。

もちろん、侮辱された相手が個人や特定の団体であれば、過去にも裁判の対象にもなってきたし、名誉毀損罪が成立する場合はある。しかし、権力者や宗教者に対する風刺は、批判の的になることはあっても、それを法のもとに取り締まることは決してない。まして暴力的な報復に対しては、断固法的な処置で臨むのがブレることのない原則なのだ。その意味ではフランスも人権原理主義と言えるかもしれない。

 

しかも、今未曾有のコロナ禍の中で、フランス全体が心身ともに病んでいる最中だ。中国の強権的な対策のようなことは、共和制民主主義を国是とする国では取れないし、民主主義の効率の悪さにイライラは募るばかりだ。経済でも一人勝ちを続ける独裁国家中国に対する国民の反発も大きい。

 

フランスは第二次大戦下、親独政権をたてた経験もある。1940年から1944年までのビシー政権は親ナチスであり、国名から「共和国」を外したのだ。ドイツのナチスと同様、民主的に成立した政権だった。フランス人も国内の多くのユダヤ人を強制収容所に送ったという暗い歴史も背負っている。

 

つまり、フランスには多くの血を流し、多くの悔悟の涙を流した末に、今の第5共和制と国是を勝ち取ったという歴史の重みがあるのだ。

それが今揺れ動いている。譲れない国の理念と、国内にすでに500万人を超すイスラム教徒を抱える現実のはざまで呻吟している。2022年に控えた大統領選挙に向けてマクロン大統領は保守派の票がどうしても必要で、強硬策を打たざるを得ない面もある。

私は、フランスの歴史も学んできたし、共和制民主主義にも欠点はあるものの、現存の他の体制よりはずっとましだと思っている。

まして、私は自らの意思でこちらに移住してきた。日本語や自分の文化的背景を捨てろと言われているわけでもない。「郷に入っては郷に従え」ということに何の抵抗もない。

フランスのアイデンティティの根幹が、フランスの歴史に根ざした自由、平等、友愛にあることも理解している。特定の宗教の教義が国政の上位に位置することにも同意できない。したがってイスラム教徒の視点にたつことはできないし、一般のフランス人の感覚の方によりシンパシーを感じることは事実だ。

 

フランスがその強固なアイデンティティを保ちつつ、目の前に突きつけられた現実にどう対応し、どこへ向かうのか、目が離せない今日このごろだ。

 

 

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその14

フランスでの運転免許証―顛末

 

私の国際運転免許証は、9月26日で1年間の有効期限が切れた。

フランスでの車の運転は主に私の役割だし、病院通いには必須だ。しかもほぼ毎日運転しているので、運転できない事態はどうしても避けたい。

1年前に車も買ったし、地下駐車場も苦労してやっと使えるようになったばかりだ。

当初は国際運転免許証の期限内に一旦帰国し、再発行したものを持って再度フランスに入国してから、今後のフランスでの免許証についてどうするか、落ち着いて検討するつもりだった。

ところが、このコロナ禍で、日本への入国手続きがとんでもないことになっていて、様子見をしているうちに、有効期限内(1年)の帰国は不可能になってしまった。(ブログ「国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその11 ■COVIT-19」2020-10-12版をご参照ください)

 

国際運転免許証以外で運転するためには、こちらの運転免許取得試験を受けて、正式にフランスの免許を取得する方法と、日本の運転免許証をフランスの運転免許証に変更する方法とがある。

正式に取得した場合は、日本の運転免許証もそのまま保持できる。しかし、変更する場合は、日本のものはその時点で没収されるので、日本に帰ってから何らかの再発行手続きが必要だ。以前は、日本の免許証を没収されることはなかったらしいが、EU各国共通のルールとして、免許証の重複所持は認めないことになった。テロ対策だというがよく考えるともう一つピンとこない。意味不明な行政手続きはどこの国にでもあるようだ。

日本に戻ってから免許証の再発行手続き自体はさほど面倒ではない。

ただ、日本のコロナ禍水際対策が続く間は、空港からはレンタカーしか使えない。つまりは日本の免許証なしでの帰国は難しい。結局コロナ対策解除後にしか帰国はできないことになる。

 

いろいろ考えた末、結局日本の免許証をフランスのものに変更する手続きをすることにした。幸い、2020年8月から申し込み手続きがWEB上でできるようになった。

ANTS (AGENCE NATIONALE DES TITRES SÉCURISÉS:国家安全性証明局?)のサイトから、 申込み書式に沿って質問に答え、必要書類のデータを添付して送信すればいいのだ。

f:id:takodajima:20201027194751p:plain

ANTS WEB 内の個人ページ入り口。ここから様々な申請や問い合わせができる。



ただし、必要書類の中には、日本の自動車安全運転センター発行の「運転免許経歴証明書」なるものがあって、それを日本から取り寄せなければならないことが分かった。

早速8月初旬に東京の長男に頼んで証明書を取り寄せてもらう。

菅政権になってから、少し風向きが変わってきたようだが、日本はまだまだ紙とハンコの手続き文化だ。

まずは経歴証明書をスマホで撮影したデータをメール添付で送ってもらった。それを、日本の運転免許証の裏表両面スキャンデータと一緒に、ニース在住の日仏法定翻訳専門家に送って、フランス語に訳してもらう。

免許証の翻訳など私にでもできそうな簡単なものだ。ただ正確な翻訳かどうかというより、公文書として法定翻訳家の翻訳であることの証明が必要なのだ。何度かやり取りの上、最終的に正式な法定翻訳版をデータで受け取ったのが8月21日だった。

こちらで入手できる他の資料データも全て揃えて最終的に申請手続きを完了したのが、ちょうど国際運転免許証の期限切れ1ヶ月前だった。

申請用顔写真は、近所の写真館で撮ったデータのIDコードを入力するシステムだ。顔写真を寸法に合わせて切り抜いて貼り付けたりしないで済むのだ。

 

手続きの進捗状況は、ANTSのサイトに登録した個人ページにパスワードを使って入れば分かることになっている。

しかし、その後何度マイページ内を覗いても全く変化はない。1ヶ月以上たってから、娘に頼んで改めてよく確認してもらうと、もし3週間以上たっても進展が見られないときには、電話をして確認するようにとの記述があるという。電話番号は4桁の短縮版であったりして、分かりにくいことこの上ない。

申請手続きはキチンと済ませたという気もあってか、なかなか電話をする気力がわかなかった。この手の問い合わせ電話は結構気合が必要なのだ。

雑事も重なって、結局電話連絡できたのが、申請から2ヶ月たった10月26日だった。

音声案内に従って順番に数字を選んでプッシュするタイプの受付電話だ。何度も番号を選んではプッシュし、やっと最終呼び出し音のところにたどり着いた。待機用電子音楽を繰り返し聞きながら待つこと約25分。半分あきらめかけていたところに突然肉声の反応があった。

一通りこちらのデータを確認したあと、帰って来た答えは、日本の運転免許証に記載された有効期限内であれば、フランス運転免許証への変更手続き中でも運転は可能ということであった。

通常でもそうなのか、コロナ禍状況での特別処置なのかは分からない。

しかも、変更手続きがいつ完了するかは全く予想がつかないとのこと。

大体の目安だけでもと粘ってみたが、それぞれ個別の事情次第なので、全く分からないとのことだった。まあ、私の免許証は2022年までは有効なので、とりあえずは焦らずに待つことにした。

何はともあれ、このまま運転が続けられることが分かっただけでもほっと胸をなでおろした。

 

さてそこで、普段の運転時に携行する免許証に当たるものをどうするかが問題だ。ANTSの担当官は具体的に何を所持しろとは言わない。こちらでは、今や免許証自体の所持が必要とされていない。

 

この1年一度も免許証の提示を求められたことはないし、周りのフランス人も免許証を提示した記憶がないという。

しかし、考えてみれば免許証の提示が必要なのは、事故のときだ。

変更手続き期間中に、日本の免許証で運転している私が事故にあったとき、状況をフランス語できちんと説明できる自信は全くない。

そこで、以下の書類のコピーを折りたたんで持ち歩くことにした。

1:運転免許証の変更手続き申請受付証のコピー。受付日時と、受付ID番号が記載されている。

2:日本の運転免許証の裏表両面のコピーとその法定翻訳書類コピー

3:念の為に日本の期限切れ国際運転免許証のコピー

 

f:id:takodajima:20201027194821j:plain

日本の国際運転免許証。いつデザインされたものか知らないが、紙はボサボサしたボール紙、サイズも中途半端で持ち歩くとボロボロになる。

 

フランスでは、運転免許証(終身有効)自体持ち歩かなくてもよくなった。

確かに警官は皆携帯端末を持っているので、名前と住所だけで即座に確認できる。事故や違反履歴もすぐさま確認できるから、警察の管理も楽だ。こちらには免許証不携帯という違反がない。

日本でもデジタルトランスフォーメーションが進めば、免許証の携帯義務はなくなるはずだし、余計な心配が一つ減る。

ついでに有効期限も書き換え無しの終身にしてもらえないものか。

まあ、75歳とか、80歳とかになったらきちんとした適性検査は必要かもしれないが、免許更新の手間暇、社会コストは大いなる無駄に思えてしようがない。

まあ、免許更新制度は大きな警察利権の一つだから、日本からなくなることはないのかもしれない。

 

いずれにしろ、これで安心して運転ができることが分かったが、次の課題は、ビザの延長問題だ。これも目処がたったら改めて報告させていただくつもりだ。

 

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその13

フランスの子供/家庭/結婚

 

つい先日、フランスの甥っ子に初めての子供が生まれた。男の子だった。

これで、無事実家の家名を継ぐ男の子が生まれたと喜んだのだが、周りを見渡すと、何やらトンチンカンな喜びようだと気付かされる。どうやらすっかり時代は変わっているのだ。男の子が家名を継ぐという概念がすでに法的にもまったくなくなっている。

私がパリで結婚したころからみると、結婚や子供を持つことに関して、この半世紀での変化は凄まじい。

こちらで暮らしてみると、日本にいては気づくことのなかった目に見える様々な差異や変化を肌で感じ取ることはできる。しかし、その差異が生まれた背景や、どういう経緯でそうなったのかまではなかなか理解は難しい。周りのフランス人に聞いても詳しく解説できる人はめったにいない。

例えば、夫婦別称制度や、未婚のカップルが年間の結婚カップルとほぼ同数いる事実など当時は考えられなかった。それに、街で見かける子供の数がやたら多いのにも驚くのだ。未婚のカップルの子どもたち、いわゆる婚外子もごく普通に社会に溶け込んでいる。2〜3年前の統計で年間出生児の6割に達するのだという。

私達の娘も名字は変わっていないし、孫の名字も正式には両姓の併記だ。

 

Biarritz界隈は、リタイアした老人の安寧の場としても有名である。しかし、街には老人も多いが、見かける子どもたちも、負けじと多いのだ。

杖をつく老人カップルのそばを、おしゃぶりをくわえた金髪の子供がよちよちと歩き回る。思わず老人たちが笑顔で話しかける様はなんとも微笑ましい。

以前、富裕なリタイア族が集まるアメリカのフロリダ海岸を冬に訪れたことがある。美しい白砂のビーチにリクライニングチェアが延々と並んでいて、そこで日光浴をしているのは、全員が色とりどりのひざ掛けをした老人だった。その異様さが忘れられない。

老人だけの世界は、いくら風光明媚で、豊かな施設に恵まれていても、どこか寒々として寂寥感に駆られるのだ。

それに引き換えると、ここには全世代が揃っている。あえて言えば、老人と子供が目立つと言えるかもしれない。なんとも明るく希望に満ちた光景だ。ちいさな子供たちが街に溢れている様は、それだけで人々を幸せな気分にしてくれる。

この半世紀の間に何があったのか、興味が湧いていろいろ調べ始めた。様々な統計データにもあたってみると、思った以上の劇的変化が起こっている。

しかもこの変化は自然発生的なものではなく、はっきりとした政策の結果だ。

 

まず1972年から、嫡出子・非嫡出子の区別がなくなった。どんな状況下で生まれた子でも同等の権利を有することが法制化された。つまり子供の生育に親の結婚は関係ないとされたのだ。結果、婚外子は1980年代から急増し、2017年には約60%となったのだという。

2012 年から2017年まで大統領を務めたフランソワ・オランド(François Hollande)氏自身が、パートナー、マリー・セゴレーヌ・ロワイヤル(Marie Ségolène Royal)氏との間に4人の婚外子をもうけて、家族として暮らしていたのだ。後に離婚とは言わない離別をしている。

ここまでの社会の激変の背景にいったい何があったのか、さらにあたってみることにした。

 

インターネットサイトにも、フランスの結婚観と制度の変化に関する情報は数多く載っている。その中でも、パリ在住のライター高橋順子氏のきちんとした取材に基づく報告がとてもわかり易かった。日本語で読めるのもありがたい。

以下、引用しながら概略を紹介しよう。(引用文は斜体)

 

まず、フランスでは、結婚も離婚も日本より手間がかかる。

それに対して、パクス(PACS=Pacte Civil de Solidarité 連帯市民協約)という、結婚より簡易な制度で公式に世帯を作ることができる。

税の優遇や各種手当てなど、享受できるものは、結婚でもパクスでも大差ない。2017年の婚姻は23万3000組、パクスは19万3000組、新世帯の45%を超える。一方そのどちらも選ばずに共同生活を続けるカップルもある。パクスの選択もそれなりに手続きは面倒だ。先がどうなるかわからないし、子供の生育に差がないなら、税制上のメリットがなくても、パクスでさえいらないという若いカップルも少なくないという。婚外子が6割を超えてしまえば、別に子供が差別されることもない。

 

フランスの結婚が、してもしなくてもいい選択になってしまった大きな理由は、行政面や社会面で、結婚によって得られるメリットがほぼなくなったことによる。

例えばフランスには日本のような「氏」単位の戸籍制度がない。婚姻夫婦はそれぞれ「生まれた時の姓名」を維持して、新しい世帯を「AさんとBさんが横並びする共同体」として構成する。配偶者の姓を名乗ることもできるがそれはあくまで通称で、公式書類の姓名は別途改名の手続きを踏まない限り、一生、生まれた時のままだ。その世帯に生まれた子どもは両親のどちらか、もしくは両方の姓を組み合わせた姓を名乗る。

公的な身分上、配偶者間に「扶養−被扶養」の力関係がない。片方に職があっても無くても、二人の所得にどれだけ差があっても、世帯所得は単純に合算し、頭数とセットで税申告をする。所得税控除の有無や負担額は、「その頭数の世帯でどれだけ収入があるか」によって決まり、頭数が多いほど税額が下がる仕組みだ。

そのほかにも、結婚制度のあらゆる点で「配偶者Aと配偶者Bの違い」がない。そのため日本の結婚後の改姓のように、「配偶者Aが配偶者Bに合わせて何かを変える」という行政上の必要が発生しない。

結婚による行政上の変化がない社会では、働き方、その他生活全般への影響も、必然的にほぼゼロだ。

しかし、日本にも多大な影響を与えた1804年成立の、ナポレオン1世の時代のフランス民法では、結婚を規定する第213条にこう記されていた。

Le mari doit protection à sa femme, la femme obéissance à son mari.
夫は妻を保護し、妻は夫に従わねばならない。

f:id:takodajima:20201022011348j:plain

1804年制定のナポレオン法典


 

結婚前は父親、結婚後は夫に従い、未成年・犯罪者などと同じく「法的能力を持たぬもの」(第1124条)とされた。参政権も財産所有権もなく、就業や給与所得にも夫の許可が必要で、親権は父親にしかなかった。つまり女性は父親か夫、どちらかの男性に「保護されて」生きる存在だったのだ。

そんな状況が変化したのは19世紀の後半、ヨーロッパ各地で女性解放運動が徐々に高まっていった頃から。第1次大戦のあおりで女性の労働力が必要とされ、同時に社会的発言力も強まっていた。既婚女性の「法的な無能性」法文は1938年に削除され、1944年には女性参政権も認められた。

日本で女性参政権が認められた時期とほぼ同じだ。

それでも家庭内での女性の位置はなかなか改善されず、妻が夫の許可なく就業できるようになったのは1965年。親権が両親に平等に認められるのも、母子家庭の婚外子差別が撤廃されるのも、1970年代まで待たねばならなかった。

世帯内の夫婦別姓、離婚後の未払い養育費の給料天引き強制徴収制度などは、21世紀に入って達成されたものだ。

男女平等は、1970年代から加速した。が面白いことに同時期、男女平等が進むのに合わせて、非婚者がどんどん増えるという逆転的な現象が起こった。1970年には1000人当たり7.8だった婚姻率が、1980年には6.2、1990年には5.1と、落ち込みが数字にも明白に現れた。

しかもなお悪いことに、そこに少子化までセットでついてきてしまったのだ。合計特殊出生率は1970年2.55、1980年1.85、1990年1.77と、こちらも下方推移が止まらない。子どもの数は減るばかりだった。

日本の2019年の特殊出生率は1.36だと言うから、深刻度はもっと大きい。

フランス政府は、大いに焦って様々な調査を行った。そこで俎上に上がったのが、結婚制度とその他の社会制度における、男女格差の改善具合の「ズレ」だった。

給与や待遇などの労働条件や子どもの保育手段、家事育児分担など、結婚制度以外の男女格差是正が進んでいなかった。女性が社会に進出する権利を持っても、子どもを持ったら働き続けることが難しく、結局家庭に引き戻されてしまう。仕事か家庭かの選択を迫られて、仕事を選ぶ女性が増えたのだ。

シングルで子どもを持てば、給与格差と保育手段の不足でたちまち貧困に陥る。年金額も必然的に低くなり、老後まで貧困問題に晒される。女性たちは結婚という従属から逃れたと同時に、そこで受けていた保護も失ってしまったのだ。

今の日本の現実はこのあたりに近いのではないだろうか。

フランスでは人権意識や社会の在り方は、ここでとどまってはいなかった。

女性を貧困から救い、出生率を回復させて国を維持していくには、社会全体の男女格差是正に本気で取り組むしかない。そうしないと、国として立ち行かなくなる。1990年代、意思決定機関の多数派だった男性たちも、やっとそう理解したのだ。

1995年には首相直轄で男女同数(パリテ)監視委員会を創設、1997年には社会全体の男女格差について大規模な実態調査を行い、「どこをどう変えたら、男女格差が是正されるのか」の洗い出しを行った。

調査検討会のもたらした結論は「政治・経済の意思決定現場に、女性の数を増やすこと」。そのためにまず、立法根拠となる大元の憲法を改正しようと、1999年、国民主権を定める憲法第3条に「フランス法は国民の代表者選出に際し男女平等を促進する」との一文を追加した(この一文はその後2008年、「代表者選出および職業上・社会上の責任において」と加筆され、フランス共和国を定義する憲法第1条に格上げされた)。

2000年には政党に男女の候補者数を揃えることを義務付ける法律(パリテ法)、2001年には職業上の男女平等を促進する新法、2006年には男女給与格差是正新法を施行。同時に保育支援の充実や父親の家事育児参加推進策を打ち出し…と、一つ一つモグラたたきのごとく、法整備を進めて行った。

そうできた一番の理由は、新しい家族のあり方を社会が受け入れたことだ。この国の現実はもう、『結婚した夫婦、大黒柱の父親と専業主婦の母親と子ども達』のモデルだけでは表せない。家族には様々な形があると認め、国家はその様々な家族を支えていこうと、方向転換したのだ。

怒涛の政策攻勢が功を奏し、フランスの合計特殊出生率は2000年から回復軌道に乗り、2006年、およそ30年ぶりの2.00越えを達成。最近4年の出生は再び微減傾向にあるが、欧州をはじめ先進国の間では依然、最高ランクをキープし続けている。

女性たちが結婚の枠外でも子を持ち、生きていける社会になった。出生児の6割が婚外子の数字は、その象徴的なものだろう。ただこの表現には注意が必要で、生まれる子の親の約9割は両親揃って同居生活をしている。婚外子=一人親の子、ではないのだ。そして結婚を選ばない親の多くは、冒頭で触れたパクスを利用している。

日本でもかなり知られるようになったこのパクス(PACS=Pacte Civil de Solidarité 連帯市民協約)の成り立ちが面白い。

もともとパクスは、同性カップルを結婚制度に入れないために作られたもの。同性婚を認めたくない保守勢力と、人権として認めるべきだという人々の妥協案だったのだ。結婚ではないけれど、税制などで結婚と同等の権利を得られるものとしたのだ。

しかし実際に施行してみたら、利用者の圧倒的多数は異性カップルだった。2017年、全19万3000組のパクス締結のうち、同性カップルは7336組。つまりパクスの96.3%は異性カップルで占められている。

そして、2000年代後半には結婚制度の方も、ほぼ性差が解消されていた。そこで議論の矛先は『同性婚を認めるか否か』というものから、『結婚に性差がないなら、同性同士を認めない理由もない』という風に変わったのだ。

フランソワ・オランド大統領の時代、2013年、結婚から性別の概念を無くす通称「みんなの結婚法」が成立。170時間に及ぶ審議を牽引し、賛成331・反対225で法制化を実現したのは、女性司法大臣クリスチャーヌ・トビラ(Christiane Taubira=仏領ギアナ出身の黒人急進左派議員)だった。

それ以来、フランスの結婚関連の法律には、男女の性差を表す語彙がない。「夫 mari」「妻femme」は「配偶者époux/épouse」に、「父 père」「母 mère」は「親 parent」に置き換えられている。

 

現代フランス政治研究所が行っている調査で、『あなたは家族を信頼していると言えますか?』という質問項目に、93%の人が「はい」と答えている。それだけの人が、家族を信頼の置ける拠りどころと考えている。それはフランスの人たちにとって、家族がかつてのような「従属させられる場所」ではなくなったからだと、政府関係者は分析している。望む人と望む形で作り、立ち行かなくなったらいつでも作り変えられる、自分自身でいられる居場所。それが現代フランスの家族であり、それを可能にするのが現行の家族政策だ。

 

子ども関連の公的支援は「その子の親」だから受けられるもので、親が結婚していようがいまいが無関係。親権は両親の間柄を問わず共同が原則で、嫡出子と非嫡出子の違いも存在しない。結婚には遺産相続や遺族年金の配偶者受給資格などのメリットがあるが、若い人にはあまりにも先のことで、「そのために結婚しよう」という動機になりにくい。

今や世帯の種類の回答項目には、男対女+実子、男対男+養子、等々17種類あるという。

 

引用が長くなって恐縮だが、以上が、この半世紀、特に2000年代から急激に変化した社会の実態である。

こうしてみると、日本に半世紀暮らしてからこちらにくると、浦島太郎の心境だ。ただ、子供と老人が共に笑顔で暮らせる生活の基盤は、この革新的政策が支えているのだということがわかる。

北欧やニュージーランドでも進む一見突出した社会革命は、単に人口が少ないからとか、移民の国だからなどの理由だけではない。ヨーロッパが目指す自由と平等の理念は、具体的政策の実現に向けて各国が同じ道を歩んでいる。それが早いか遅いかだけの問題だ。フランスもまだまだ途上にある。

ここへきて、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(Pope Francis)は、同性カップルの法的権利を認めるパートナーシップ制度「シビルユニオン」への支持を表明した。歴史は動いている。

 

私はここで、日本の現状との比較をしようとは思わない。この分野について比較ができるほどの知見があるわけでもない。しかし、おそらくは日本も遅かれ早かれこの方向へ歩まざるを得ないに違いない。

 

今のフランスには自慢できるものが3つあるという。

チーズとワインと家族制度だそうだ。

 

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその12ー2

DIY (Bricolage=ブリコラージュ)-2

 

昨年の10 月2日にフランスに到着してすぐの5日土曜日の朝、突然トイレの水が流れっぱなしで止まらなくなった。水洗用タンクの陶器の蓋を外して中を覗いてみると、日本とはまったく違う複雑なシステムの部材が備え付けられていて、問題の在り処がすぐには分からない。マンションには24時間緊急対応サービスがあるはずなので、あたふたと連絡先を探し、電話をする。土曜日のせいかなかなか繋がらない。やっとオペレーターが電話口に出て、しばらく待たされたあと、修理屋は土日には対応不可との返答が帰ってきた。24時間緊急対応といいながら、まるで他人事だ。

修復するまでの間、水の元栓を閉めると台所が使えなくなるのだ。文句を言ったところで、目の前の現実はどうにもならない。

結局、フランスでの最初のDIY大仕事は、なんとトイレの修理となった。

まずは、部品をすべてバラしてメカニズムを解明するところから始める。

以前からフランスの水洗トイレのフラッシュは勢いもよく水流も独特で、かなり優れているとは感じていた。実際に部品をばらしてみると、かなり複雑だ。

確かに水流の強さや、流れ方、何より洗浄力は日本のものに比べてかなり優れている。日本の水洗フラッシュのシステムはシンプルなので、何度か不具合を直した経験がある。フランスでも、昔はもっと単純で、大抵は壁の天井近くに木製のタンクがあって、紐を引っ張ると丸いゴム製のボールが動いて水が流れ出し、タンク内に水がたまりだすとボールが再び穴を塞ぐだけのシンプルなものだった。日本のものも今でも原理的にはほぼ同じだ。しかし、こちらのものは見たことのない入り組んだ部品で構成されている。かつ部品はユニット化されていて、故障の原因を探し当て、ピンポイントでそこだけ修理するのは難しいことが分かった。ここは、ユニット化された部品全体を新しいものに交換するほうが早い。

そこで、近くの大型DIY店に駆けつけて、身振り手振りでなんとか対応できる部品ユニットを購入した。しかし、持ち帰ってよく観ると、購入したものは数種類の形式に対応可能な汎用ユニットだった。つまり、仕様がさらに複雑になっている。そっくり取り替えようとすると、機種毎の対応作業手順がそれぞれ違っていて、フランス語のマニュアルを見ながらの修理作業は、私には手に負えない。

f:id:takodajima:20201017005232j:plain
f:id:takodajima:20201017005257j:plain
水洗タンク内のメカニズム。ばらして観るとかなり複雑な造りになっている。ユニット部品も複雑だ。

お手上げだからと諦めるわけにも行かないので、推理と工夫を凝らし、以前のユニットも活かしながらああでもない、こうでもないと組み立てて、何とか修復にこぎつけた。使わなかったユニットの半分は今でも残っている。

 

この体験で、設備系の修理はなかなか手ごわいことが分かった。そこで、温水と暖房を担うボイラーは、早めに専門業者に依頼して点検かたがた劣化した部品を交換してもらい、夏冬の切り替え方法などを直接聞き出すこともできた。

富士山麓にいた頃には、近くの御殿場だけで、4店のDIY専門店があったので、よく通ってはかなり細かく素材や部材、工具などを見てきた。30年で中身も見違えるほど充実した感があるが、基本的には別荘ライフに向けた趣味の世界だ。一方、フランスのDIYショップは、趣味の店というよりサバイバルステーションなのだ。その後もあしげく通うことになった。

 

我が家の家具は、大方が骨董品でできている。

椅子は毎日使うし動きも激しいので、古いものはいずれ修理が必要になる。我が家のスペイン製の大きなダイニングチェアも10数年前に一度プロに頼んで修理している。2018 年夏に東京からの荷物の受け入れ準備に来たときに、革製の座面が緩んできて座り心地が良くないのが気になった。なかなか同じような新品も見つからないので、同じ業者さんに頼もうと思ったが、どうやらすでに廃業している様子。荷物の到着が予定より大幅に遅れたので、その間に自分で修理することにした。これも、まずはばらして全体のメカニズムを確認しなければならない。

座面の土台となる部材は、布製平ベルトとクッション材でできていて、画材のキャンバスをフレームに貼り付けるときのタックス(釘)でしっかりと固定されている。その釘の部分から布ベルトが裂けて緩んできていた。さっそく布製の幅広ベルトとクッション材を調達した。タックス(釘)は打ち込むのが難しいので、以前購入した電動ステープルガン(エアタッカー)を使うことにした。最近は画材のフレームへのキャンバス貼りもキャンバス貼り器で引っ張ってからタックスをタッカーで打ち込むことが多くなったようだ。

f:id:takodajima:20201017005636j:plain


 

問題は飾りビスだった。

しっかりと打ち込まれている真鍮製のビスを引き抜くのが難しい。大型のマイナスドライバーを使って注意深く一個ずつ引き抜かなければならない。1脚の座面だけで22個も使われている。全部で6脚あるから合計132個を注意深く引き抜いてさらに仕上げに全て打ち込み治す必要があるのだ。

 

f:id:takodajima:20201017005705j:plain

固く食い込んでいるものを引き抜く過程で、ビスが変形してしまったり、真ん中の芯の釘が図らずも折れてしまうものが何個か出てしまった。どこかに売っているはずだと作業を急いだ結果、2脚分の飾りビスが数個ずつ足りなくなってしまったのだ。できる範囲で補修を完成した分が4脚。かざりビスを探したが同じものは見つからず、替えるとなれば、全てを同じもので揃えなければならない。6脚で総計228個必要になる計算だ。それ以来解決策は後回しにされて2脚は地下のガレージに放り込まれたままだった。今回のガレージクリーンアップ作戦で、気がついてみたら他のものと一緒に綺麗サッパリ持ち出されてしまったのだ。今は、新しく同じようなデザインの椅子をスペインで探すべくネットで探しているが思うようには見つかっていない。コロナ禍が収まるまでは実物を見にも行けない日々だ。

 

もう一つの骨董家具は古いチェストだ。天板が大理石、優美な局面にそって真鍮のフレームが通っている。引っ越しの運送等によってこのフレームが何本も外れてしまっている。幸い、外れた真鍮フレームは各引き出しの中に保管されていた。この補修作業は、真鍮フレーム部材に接着剤を塗り、クランプで局面に沿って、一つづつ丁寧に貼り付けるだけの作業だ。

 

f:id:takodajima:20201017005730j:plain

しかし、この絶妙な局面の処理と、表面の寄せ木細工の見事さには舌をまいた。

日本の伝統工芸品もすごいが、フランスの古い高級家具の匠の技もすごいものがある。とても全体の修復などできるものではない。フレームの接着作業だけにして、置く場所も照明の目立たないところに置くことにした。細かいところに補修が必要なところがまだいろいろあるのだ。

 

もう一つの作業は、老人家庭には欠かせない手すりだ。

風呂とシャワーの際に身体を支える手すりは頑丈なものが必要だ。

ただ、タイル板にドリルで穴を開け、アンカーを打ち込んでからスクリューを揉み込んで固定する必要がある。

f:id:takodajima:20201017005439j:plain

 

 

使用するスクリューに合わせたアンカーを選び、それが収まる大きさの穴を開けなければならない。

 

f:id:takodajima:20201017005410j:plain

 

更に手すりを固定するスクリュー用の穴は3〜4個あるから、その穴に合わせた施工がそう簡単ではない。先に穴を開けてしまうと、穴位置が微妙にずれてスクリューの揉み込みができなくなるのだ。穴を開けてはスクリューを仮止めしながら何度も繰り返して穴位置を成り行きに合わせて決めて行く。根気のいる仕事だ。

 

f:id:takodajima:20201017005351j:plain
f:id:takodajima:20201017005326j:plain



 

トイレや、ベッドサイドの手すりも、壁紙の下は漆喰なので、スクリューとアンカーのサイズは違うが要領は同じだ。

f:id:takodajima:20201017005612j:plain

 

 

ただ、トイレなどは狭い空間での身体の動きが複雑なので、取り付け位置にはかなり時間をかけて工夫した。一般的な両脇に手すりを付けるタイプよりも、身体を少しひねって片側から両手で引き上げるほうが楽なことも分かった。結果、一般とは違うレイアウトにした。高さの調整も慎重にしたおかげで使い勝手には満足している。

 

f:id:takodajima:20201017005547j:plain

 

 

それ以外にも、壁面照明の取り付け工事、風呂場の防水照明器具の取り付け等々苦労はしたが、なんとかこなすことができた。

 

f:id:takodajima:20201017005814j:plain
f:id:takodajima:20201017005851j:plain

 

 

 

台所の一角の壁面に、置き場に困る鍋フタ掛けを創ってみた。針金ハンガーをちょっと変形しただけの遊び半分の作業だ。材料費ゼロの楽しい作業でもある。

f:id:takodajima:20201017005914j:plain

 

 

それにしても、フランスの電球の種類や、器具へのねじ込み部分の形状の多様性には驚くばかりだ。こんなにたくさんある理由が分からない。メートル原器を創った合理的な標準化の進んだ国と考えていた先入観は完全に崩れた。パリで建築プロジェクトに携わっていた当時には気がつかなかったことだ。不合理だらけで非効率この上ない。古い建物には、おそらく修理の年代ごとにプラグの形状やコンセントの幅でさえいろいろ混在していて、いちいち確認しないとせっかく買ったものが無駄になる。歴史的に優れた数学者を数多く輩出している国の数字のカウントの仕方が全く合理的でないところが象徴的だが、矛盾だらけで不可思議なところには飽きることがない。

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその12ー1

DIY (Bricolage=ブリコラージュ)-1

フランスに越してきて、古い建物に住もうとするならDIYの素養は不可欠だ。少々の故障や修理は自らやらなければ、修理屋さんはなかなか来てくれないし、やっと来てもらっても、払った金額に対する満足感はほとんど期待できない。

特に、我々のような日本からやってきた老夫婦が、こちらのマンションで不具合だらけの身体に合った住み心地を求めようとすれば、それはもう自分でなんとかするしかない。

そもそも室内は土足が原則だ。床は厚いタイル張りだから、グラスや皿はしょっちゅう割れる。天井は高く、壁は漆喰かコンクリートの上に様々な壁面材で仕上げられている。家具以外に木製のものはドアだけだ。220~250Vの延長コードは径が1cmほどもあり、プラグは直径4〜5cmもあって、隠しようがない。壁に釘打ちなどできないから、額一つ掛けるのも簡単ではないのだ。

 

f:id:takodajima:20201014234935j:plain

模様替え直後のリビング。この後大きく手を加えることになった。

 

私は、DIYに関しては、毎週末富士山の別荘で過ごした30年を超す生活で、かなり鍛えられてはいる。

 

f:id:takodajima:20201014235340j:plain

f:id:takodajima:20201014235431j:plain

f:id:takodajima:20201014235459j:plain

全て手作りだ。流木は四万十川産を取り寄せたり、テーブルの足は切り出したヒノキ材を3年以上晒してから加工している。2階の天井裏にロフトも作った。

 

フランスでも、25年前にパリのNadiaの実家近くRue de Vignesに住まいを持ったときには、注文通りに仕上がらなかった内装に、コツコツ手を入れたものだ。道具や素材は、東急ハンズのモデルになったBHV(べー・アッシュ・ヴェー)で買い揃えたので、フランスのDIYショップの事情も知らないわけではない。

 

しかし、もっと元をただせば、ニューヨーク時代に遡る。私の人生の師でもある画家佐々木耕世氏のアトリエに転がり込んでいた頃、同居人は実は大工として生計を立てていたのだ。

佐々木耕世氏は、いわゆる前衛画家として東京で活躍していたころ、生活のためにゴジラの特撮などで有名な円谷プロに勤めていたことがある。そこで大道具小道具、精密な模型などの製作技術を磨いたのだという。

一度、円谷プロへの入社試験の課題の話をしてくれたことがあった。厚さ10 mm、幅、長さそれぞれ1000mmの板を自由に切って、制限時間内に1辺100mmの正立方体を製作しなければならなかったそうだ。一瞬簡単そうだがよく考えるとかなり難しい。

佐々木さんは、そんなところで鍛えられて大工仕事の腕を上げたのだそうだ。

後に帰国した佐々木さんは、赤城の山中に独力で間伐材を使ったアトリエを建て、近隣でも話題になった大きな洋館も建てている。もちろん何の資格も持ってはいなかった。

我々は、当時ニューヨークでブームとなった日本レストランの設計施工を請け負っていた。日本食は健康食の代名詞でもあった。私はそこで、見様見真似で大工仕事を身につけたのだ。我々が請け負う程度のアメリカの飲食店の改装工事は、まったくもっての安普請だった。以前の什器備品をできるだけ活かしながら、見た目だけ日本っぽく仕上げる程度だったから、全くシロートの私でも勤まったといえる。アメリカの寸法取りはインチより細かくなると32分割の分数となり、32分の1インチ以下は、0.1mmのような表現ができない。のこぎりも押し切りタイプで歯の厚みもかなり大きいから細かい細工には向かない。仕上げ精度よりは時間短縮が求められる世界だったので、1年ちょっとの経験では腕に何かの技術が付くわけでもなかった。ただ、大工道具や電動工具の扱いには慣れたのと、その分野の現場英語にはかなり詳しくなったことだけは事実だ。

このブログの第1弾で紹介した、パリでの日本建築プロジェクトにも、それを見込まれて招かれたものだ。当時、日本からやってくる本格的な大工さんたちの間に入って、細かい材料を現地調達したり、アメリカ人施主と施工チームとの間のやり取りのマネジメントには適役と見なされたのだ。

それにしても、パリに長野県安曇野からやってきた本格的な大工の仕事ぶりを間近で見たときの衝撃は忘れられない。

その大工さんは、神経をすり減らす仕事なので、50 過ぎては現役を続けられないと言っていたが、当時40歳代だった。趣味はクレー射撃だという。宮大工に憧れていたというが、今思い返しても宮大工並の仕事ぶりだった。毎朝起きて真っ先の仕事は道具の研ぎ作業だ。20数本そろったノミを丹念に一本ずつ研ぎ上げる。ひと現場が終わると、研ぎ減って使えなくなる。毎回新品のノミセットを誂えて次の新たな仕事にチャレンジするのだという。のこぎりの目立ても、かんなの刃研ぎも毎朝欠かさない。

3寸角の角材に鉛筆ですっと引いた線に沿って、のこぎりで直角に切り取る場面に居合わせたことがある。あっという間に切り落とした切り口の両方にかすかに鉛筆の線が残っているのだ。かんな仕事も見事と言うしかなく、削り取ったくるくる巻のカンナ屑を引っ張って戻して観ると、透き通っていて向こう側が見えるのだ。

 

f:id:takodajima:20201015001559j:plain

ELLE誌に載った大工さんの写真。取材時、無遠慮に写真を取りまくったので、彼は「邪魔だ!足をたたっ斬るぞ!」と息巻いた。

無論誰もわからなかった。

 

修行時代の話もすごくて、最初の何年間かは、親方と一緒に山に入り、生えている木を見ながらその性質などを覚える日々を送ったそうだ。山の南面、北面に育つ木の特徴や斜面に生える根曲がりの木の性質などを、スギや、ヒノキ、サワラ材など種類の特徴とともに徹底して学ぶのだという。同時に金槌を右左どちらでも同じように使えるまで繰り返し訓練を続けたのだそうだ。仕事のスピードも半端ではないし、建築家ともほぼ対等に渡り合う。数寄屋造りの建築は歴史的に様式がほぼ決まっているので、経験の豊かな大工のほうが建築士よりも詳しいときがある。平気で「それはおかしいだッペ」と建築家の指示に反論していた。

 

f:id:takodajima:20201015002702j:plain

手前のテーブルは人間国宝の手になる輪島塗。襖に描かれた竹の墨絵は、名前は忘れたが高名な画家のオリジナルだ。絞り丸太の床柱は当時日本で買っても1本100 万円はすると言われていた。

 

ニューヨークで、アメリカ式の雑な大工仕事を身に付けて来た私には、まさに衝撃的な体験であった。もちろんあの感動的な技術は身につくまでもないが、大工仕事へ取り組み姿勢とか合理的な手順とか、技術以前の臨み方をしっかりと学ぶことができたのである。

 

パリには主にスペイン産の竹の専門店もあるし、棕櫚縄を入手することもできたので、和風庭園も作った。これは、現地の作業員と私の仕事だった。施主のアメリカ人が日本庭園の写真集を開いて、こんなふうにしたい、というものを現地の作業員を指揮して作り上げるという仕事だ。庭石はフォンテンブローの森の中に踏みいって、どの石がいい?と訊かれ、写真を見ながらこのあたりかなぁというと、おそらくは無断で調達してきた。よくそんなことができたものだと今更ながら驚くばかりだ。このときの現場監督はユーゴスラビア出身、パリ5区の地元の顔役で、只者ではないオーラを放つ大柄の人物であった。彼に頼めば大抵のことは可能になった。今ポンピドー・センターが建つ地区あたりは当時再開発の最中で、建物の解体作業が進んでいた。どう話を付けたのかわからないが、昼休み時間に現場を訪れると、解体現場の監督らしい人間と解体予定の外壁だけが残る建物の石材を見て回った。私にどれがいい?と訊かれたので、庭に降りるところの石畳にちょうど良さそうな窓枠下の大きな石材を指差すと、大型クレーン車が現れて、吊り下げた大きな鉄球を振り子のように回して窓枠のすぐ下を直撃した。ガラガラ崩れ落ちた石材から目指すものを回収すると持ち込んだトラックの荷台に運び上げてさっと持ち帰ったのである。こんなことが日常茶飯だった。

 

まあその時の様々な経験のおかげで、フランスの野積みの古い建物の扱いには一般の人よりは詳しくなったことは確かである。電気・ガスの施工現場の知識も自然と身についてしまったところがある。

ただ、一度日本大工の匠の技を見てしまうと、恐れ多くてとてもその仕事のそばには近づけない、自分はDIYで十分だと思うようになった。

 

その後、日本に帰っても、大工や施工業者の作業精度を見極める目だけは身についた。しかし、パリで出会ったような匠に巡り合ったことはその後二度となかった。

大工道具は日本製にまさるものはないと思い知って、一通りの大工道具は日本で調達し、何度かに分けてこちらに運び込んでもいた。スクリューネジにさえ品質差があることも知った。日本製のネジはスクリューの切込みの溝に一工夫が施されていて、一度締めると緩むことがない。

 

f:id:takodajima:20201015011224j:plain
f:id:takodajima:20201015011331j:plain
マイ大工道具のほんの一部。リョービパワードライバーはフランスで買った優れモノだ。

 

まあ、こうした経験を経て、フランスでのDIYにもあまり動ずることのない免疫性が付いたと言えるのかもしれない。

 

そして、到着早々の作業はなんとトイレの水洗器具の補修だった。水が流れっぱなしになって、緊急を要する仕事だ。

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその11

■COVID-19

 フランスには、在外フランス人議会( L’Assemblée des Français de l’étranger=L’AFE )というしくみがある。

在外フランス人約200万人に対して15の地域から6年任期で90人の議員が地域毎に選挙で選ばれる。在外フランス人の権利や義務、福利厚生などの向上を目指すための議会を構成する代表だ。日本には3名の議員がいる。

 

その1人が、10月10日段階での、日本への入国手続きの体験を綴ってくれた。

エールフランスでの日本への入国空港は現在羽田は1便だけ。事実上成田からになる。成田は首都から離れた出島扱いだ。

成田に到着すると、まずPCR検査をされ、30分ほど結果が出るまで待たされる。30分なら随分と早くなった気がする。

もちろんマスクは、フランスの空港からエールフランス機内でも食事時以外で外すことはできない。しかも布製マスクは禁止だという。話題のアベノマスクは使えないのだ。

陰性の結果を持って、イミグレーションブースへ誘導される。そこでは、VISAや再入国許可証以外に、フランス出発前72時間以内に行われたPCR検査結果陰性の提示を求められる。つまり、フランスから出国する前72時間以内に検査をし、陰性でなければならないのだ。今のフランスで、出発便の予約と、PCR検査予約のタイミングを調整するのはそう簡単ではない。

検疫の担当官は乗客1人に付き2名が別々に同じチェックをするという。非接触性のサーモ体温計でのチェックもある。結局、降機から税関を通過するまでどんなに順調に行っても1時間15分はかかるという。

出口ではさらに自宅待機義務や公共交通を利用しない旨の申告審査があって、レンタカーないし、自家用車でしか自宅まで向かうことはできない。

自宅待機は2週間。外出は最短距離にあるスーパーや必需品のショップ限定だ。到着の翌日から毎朝、様子を伺う電話がかかってくるという。うっかりLINEを登録してしまった人には1日に何度も音声テープでの様子確認電話が繰り返し入って、鬱陶しいことこの上ないとのことだ。

f:id:takodajima:20201012214958p:plain

成田空港の入国に際するコロナ対策の注意事項


 

さて、こんな詳細情報を目の当たりにすると、全く日本への渡航意欲が萎えてしまう。それにしても、鉄壁の防疫体制はわかるが、来年に迫ったオリンピックはどうするつもりなのだろう。少なくとも我々が日本へ渡航するタイミングは当分訪れそうもない。

 

 

各国それぞれ、SNS上には何を信じていいか分からないような話が溢れている。しかし、だいたい起こっていることや論点は共通しているようだ。決して日本だけが特別ではない。

例えば、フランスでも、3月中頃には医療従事者への嫌がらせが発生している。

駐車中の医療関係者の車に、「ここには駐車するな」との張り紙があったり、自宅マンションのエレベーターで、露骨に「近寄るな!」と罵声を浴びせられたりの事件が相次いだ。

マスク警察なる人も日本ほどではないにしろ、マスクなしの人を咎める姿があって、パリなどではトラブルになった話も聞く。隣町のバイヨンでは、バスの運転手がマスクを付けるように注意した乗客に殺されるというショッキングな事件も起きている。

マスク不要論者が一定数いることも各国共通しているし、そもそも例年のインフルエンザと変わらないという専門家の話もあれば、個人の自由を侵害する国家権力の陰謀だとするものなど、各国共通だ。

このところの第2波と言われる拡大は、PCR検査の母数が大幅に増えたことに伴って、相対的に陽性反応が増えただけで、重症患者や死者数には大きな変化はないとの主張もある。近隣の大きな病院では、集中治療室には2人しか入っていないという話も聞いたばかりだ。

それにしても1日の陽性反応者数が2万7千人とかになると、尋常ではない。検査数の約1割が陽性という計算になる。しかし、この数字が多いのか少ないのか、深刻なのかそうでもないのかも判断できない。多くはすでに免疫を持っている人だともいえるのだ。

なにしろ、各国の統計の基準がよくわからない。特に死者に関しては直接の死因にコロナウイルスがどこまで関与しているのか、何度聞いてもよくわからない。死者数は圧倒的にもともと持病を持つ高齢者に多いことも、どうやら各国共通している。自宅待機を強いられてうつ病になったり、がんの検診ができずに手遅れになったりの事例も増えているという。友達との接触を遮断された子供が心に受けた傷は想像以上に大きいとの報告もあった。

 

 

我が家のあるバスク地方界隈は、エアバスを核とした航空機産業の中心地でもある。各種の部品メーカーがたくさんあって、これまで裾野の広い安定した雇用環境を保ってきた。ところが、ここへ来て、最もダメージを受けている大型産業の一つが航空機関連だ。フランスは、アメリカのようにドラスティックなレイオフはないものの、じわじわと、夜間シフトの停止や時短が始まっていて、いつ工場閉鎖になるか、不安をつのらせている。

自然災害が少ないはずのフランスに、この夏は干ばつ、山火事、さらに未曾有の洪水被害が相次いで、いよいよ地球温暖化の影響の深刻さが語られている。コロナに自然災害のダブルパンチだ。両方とも人類の自然破壊の結果だという論調も多い。

f:id:takodajima:20201012221450p:plain

 

一方パリ郊外の犯罪多発エリアでは、暴動や警察署襲撃事件などがこのところ目立ってきた。10月10日(土)夜、パリ郊外のシャンピニー・シュル・マルヌ(Champigny-sur-Marne)では、金属の棒などを持った約40人が警察署に向けて花火などを発射した上、乱入しようとした事件が発生。警察署の建物や車両に大きな被害が生じた模様だ。同じ警察署が襲撃されたのは、過去2年で3回目であり、今年に入ってパリ近郊の警察署が狙われたのは5回目だという。コロナ禍、景気悪化、社会不安が治安の悪化にも多大な影響を与えはじめているのだ。

 

マクロン大統領は、地方選挙に大敗したあと、7月初旬に内閣総辞職を敢行し、新首相にカステックス氏を任命した。これまで、コロナ対策に辣腕を奮ってきた保険行政の専門家だそうだが、一般国民には無名の官僚からの大抜擢だ。

大統領の支持率回復を狙ったサプライズ人事だと言われているが、今の所、コロナ対策にも際立った実効結果は見えていない。

このように社会が行き詰まったときに、大胆な政策を打ち出すのは、フランス政治の伝統でもある。

私は、なにかこれから大胆な試みが始まるような気もする。

 

アメリカの政策も、トランプ大統領の破天荒な行状が目立っていて、リベラル派からは批判的な話しか伝わって来ないが、水面下ではコロナとの共存政策についての大胆な構想が進んでいるとも聞こえてくる。これにヨーロッパ、フランスも注目しているという。

さらに、国際政治的にも大きな地殻変動が起こっているようだ。太平洋、インド洋を巡って、米、印、豪、日の安全保障体制の連携が進んでいるらしいし、中東でもイスラエルアラブ諸国の連携が現実化してきた。イランに対して、昔のアラブ対ペルシャの様相だ。中東を巻き込んだ地殻変動のときには、フランスは必ず手を突っ込んでくる。専門外の私にはよくわからないが、コロナによる閉塞感を抜け出すためにも、外交問題がクローズアップされ、スウェーデン方式採用程度の政策は出てくるかもしれない。最初英国がやりはじめて挫折したやり方だが、健康な若者の活力をいかして経済を立て直し、病気持ちの高齢者にはある程度諦めてもらう。戦争には犠牲者はつきものだから恐れずに勝利に向かうという考え方だ。こんな状態がこれ以上続くならやりかねない政策だと思う。

ヨーロッパ各国ではベーシックインカムの実証実験が以前より活発になってきているし、ヨーロッパが人類進化のいただきにあるという意識はいまだに強烈に感じられる。

フランス、ヨーロッパがCOVID-19を乗り越えどこへ向かって大胆な一歩を踏み出すのか、目が離せない時期が続く。