国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその9−2

■レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci)展 -2

 歩いてホテルからルーブル美術館に向かうには、まずはRue Mongeの広い道沿いをパリの中心、西方向に向かってしばらくたどることになる。Rue des Écolesに差し掛かったあたりから、左手奥には、ソルボンヌ大学の古い建物や、コレジュ・ド・フランス(Collège de France)など多くの有名な最高学府の建物が軒を並べている。

このあたりまで来ると、どこから右折してもセーヌ川の川岸に出る。眼の前がセーヌ川の中洲シテ島だ。昨年4月に火災で尖塔が焼け落ちたノートルダム大聖堂を、斜め後ろ側から望む最高のビューポイントでもあった。

ノートルダム大聖堂には巨大な足場が組まれ、大型クレーンや工事車両が取り囲む。一時は再建案の国際コンペや、最先端技術を駆使した斬新なデザイン案の採用などが検討されたが、結局以前と全く同じ姿に再建されることに落ち着いたようだ。

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再建工事中のノートルダム大聖堂

ただ、再建にはルイ・ヴィトン、グッチ、イヴ・サンローラン等の巨大ブランド企業が競うように総額でおよそ10億€(≒1200 億円)の巨額の寄付を申し出たことで、黄色いベスト運動の火に油を注ぐことになってしまった。

昨年4月の火災以降のデモには、「ノートルダムで起こったことは悲劇だが、人間は石よりも重要であるべきだ」、「ノートルダムには巨額の寄付、貧乏人にはどうするの?」と訴えるプラカードが掲げられ、ホームレスの活動家たちが聖堂前に座り込んだという。過激さを増すデモの背景には、深刻な格差問題が横たわっていることは間違いない。

 

再建工事中の大聖堂を右に見ながら川沿いの道をしばらく行くとシテ島の先端近くの右手にポンヌフ(Pont Neuf)が現れる。フランス語の意味するところは新橋だが、現存するセーヌ川最古の橋だ。ルーブル美術館に向かうにはここを渡って右岸に出ることになる。

半世紀近く前、この橋のたもとから左に折れた場所に、その名も新橋という日本レストランがあった。2人で入ったことがある。たまたまカウンターに妖艶な日本人美女が1人腰掛けていた。彼女は少し嗄れた大きな声で「モロッコで切り取ってきたのよ〜」と話していた。若き日のカルセール麻紀さんだった。もうそんな昔になるんだなぁ、などと思い出しながら橋を渡る。川岸に沿って左に曲がり、しばらく進んでからサインに従って右に入ると、そこがルーブル美術館だ。石畳の広い中庭を通ってさらに中に進むと、有名なガラス張りのピラミッドが現れる。そこが美術館への入り口だ。

若い東洋人の団体客が沢山いる。韓国語で話している人や中国語の人などが溢れていた。昔は日本人でいっぱいだったが、最近の日本人は団体ではなく、単独行動が多いようで、よく分からない。それに一昔前は、日本人観光客のファッションは際立っていてすぐ違いが分かったものだが、今は全く見分けがつかない。たまにすれ違う日本人は、東洋人の中ではむしろ一番地味に見える。パリだからといって、特にファッションに張り切ることがなくなったのかもしれない。

いずれにしろ、コロナ禍に見舞われてからは、フランス中から観光客の姿は消えてしまった。

 

入場を待つ人の長い行列があったが、並んでいるのはダ・ビンチ展を目指している人だけではない。時間指定の予約客は別の入り口に優先して誘導されるので、スマホの予約サイトを提示して入場し、ピラミッドを仰ぎ見る地下ロビーに出る。

 

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ピラミッドの下に広がる地下ロビー

 

久しぶりのルーブルだ。最初に訪れたのは1970年だったから、まだガラスのピラミッドができる十数年も前だ。

有名なミロのヴィーナス像が、手で触れられる位置に展示してあって、実際に触ってみた覚えがある。東京オリンピックの年に、日本で展示されたときの大騒ぎと厳戒態勢ぶりを覚えていただけに、あまりのあっけらかんとした展示に逆に驚いたものだ。何度か訪れているので、時期は忘れてしまったが、ロンドンの大英博物館に常設されていたロゼッタ・ストーンルーブルで見た覚えもある。これが、古代史を解明する辞書の役割を果たしたのかと感動した。

これまで何度も行っているが、未だに全部を見きれてはいない。

 

中では、同時にいろいろな企画展が催されているので、キョロキョロ探しながらダ・ビンチ展の入場口に到着した。レオナルド・ダ・ビンチ展だからといって、まったく特別感はない。入り口の設えは意外なほど質素なイメージだ。

 

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レオナルド・ダ・ビンチ展のエントランス

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英語版ガイドブック。画像の再現性が悪いが、エントランスのサインと同じ知的なブラウンで統一されている。

ガイドブックを手に、極端に照明を落とした入り口をはいると、最初に目に飛び込んできたのは、スポットライトに浮かぶ大きなブロンズ像「キリストと聖トーマス像」だ。周りの壁面には、ぐるりと取り囲むように、制作にいたるスケッチなどの習作が展示されている。特に衣服のひだを、何度も何度も入念に描き込んだ様子が伺える。撮影禁止の作品にのみアイコンがついているので、スマホでの撮影は自由だとわかる。本格的な一眼レフを持ち込んでいる人もいる。人類共通の文化遺産というポリシーなのか、警備員も日本では考えられないほどゆるい。

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入ってすぐのシンボルゾーンに置かれた大きな彫像

展示作品は全部で179点にのぼる。さまざまな絵画と直接対面してみると、サイズは小さくてもその迫力に押される。

 

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また、完成品に至る前の習作や検討スケッチが同時に展示されているので、手の角度や顔の向き、表情などが制作過程でどう変化したのかもわかりやすい。何がその変化を生み出したのかを想像するだけでも実にワクワクする経験だ。

 

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展示は4つのテーマに分類されていて、その3番目が、科学(SCIENCE)だ。小さなノートに図形や数式、そして鏡文字で記された解説などが見受けられる。

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ここで、私はとてつもなく大きなことに気付かされた。

私は武蔵野美大の講義で、レオナルド・ダ・ビンチの業績を引き合いに出して、500年前のヨーロッパの社会や技術、文化の成熟度では、彼の大発明は何ひとつ実現されたものがないと説いてきた。

しかし、この小さなノートにぎっしり詰め込まれた知の探求を目の当たりにすると、それを人に見せたいとか、きちんと作り上げたいとかの意識が微塵も感じられないのだ。そこにあるのは、純粋で、エネルギーに満ちた深い探究心のみだ。人はなぜこうまで、ただひたすら真理への探求に没頭できるのだろうか。驚くばかりの熱量が伝わってくる。この人は確かに社会も、歴史や文化もはるかに突き抜けている。

この人に限っては、その偉大なアイディアが実現されるかどうかなどは問題ではないような気がしてきた。そのアイディアだけで完結している。個性を通して湧き出てきた独創的な創造力というより、天からふって降りてきた宇宙エネルギーの塊なのだ。心から、本物を観てよかったと思った。

私の頭の中には何故かバッハの無伴奏チェロ組曲が荘厳に鳴り響いていた。