国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその9−1

■レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci)展 -1

 

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人類史上最大の知的巨人、レオナルド・ダ・ビンチ

昨年フランスに着いてすぐに目についたのが、パリ、ルーブル美術館でのレオナルド・ダ・ビンチ特別展だった。2019年はダ・ビンチ没後500年の記念の年だ。この企画はなんと10年前から始まっていて、史上最大、おそらく今世紀中には二度と見られない大ダ・ビンチ展になると言われていた。2019年10月24日から2020年2月24日までの予定だ。期間中はすべて予約制。ゆっくり見てもらうために入場制限があって、希望入場時間も指定予約する。出場についての制限はないから、じっくり見たい人はずっと会場内に居てもいい。大人1人17€(2000円ちょっと)だ。11月に入ってから予約サイトで検索したが、年内は予約でいっぱいだった。オープン前にすでに25万人が予約したと、TVニュースでもやっていた。結局都合のいい入場時間が空いていたのは、最短で翌年の1月15日だったので早速予約した。ルーブル美術館も久しぶりだし、パリに滞在すること自体が、7~8年ぶりだろうか。

 

2月には終わってしまったレオナルド・ダ・ビンチ展を、いまさら紹介するのは、私がレオナルド・ダ・ビンチに特別な思い入れがあるからだ。実は、武蔵野美術大学芸術文化学科の創立以来、非常勤講師を勤めていた18年間、毎年講義の初日はダ・ビンチの話から始めていた。

レオナルド・ダ・ビンチが、人類史上最大の天才の1人だったことは疑問の余地がない。1452年に生まれたダ・ビンチは、絵画だけでなく、自然科学や人体のメカニズムにいたるまで驚くほどの研究成果をあげている。戦車やヘリコプターの設計図まで残しているのだ。同時代の日本は室町時代応仁の乱から戦国時代に向かうころだ。

ところが、彼の生きていた時代、500年前にはこれらの大発明は何ひとつ実現されていない。偉大なアイディアの記録が残っているだけだ。

15世紀末から16世紀初頭のヨーロッパの技術力では動力源や素材、精密な加工技術など、ダ・ビンチ本人だけでは手に負えないものを取り揃える事が出来なかった。それを可能にする歴史的、社会的準備が整っていなかったのである。

つまり、大天才がどんなに独創的で偉大な発想を持ったとしても、その時代の社会や歴史、産業や文化が成熟していなければ、アイディアは実現できないということなのだ。優れたアイディアが個人から創出されたとしても、実現するのはその時代の社会だ。社会にそれを必要とする強いニーズがあり、素材を調達できて、熟練した技術者がいなければ、目に見え、手で触れるものにはならない。

美術大学では、伝統的に個人の独創性が重視され、社会には少々疎くても構わないというような独特のカルチャーが根強く残っている。私は「実現」することこそがいかに大事かを説きたかった。実現するのは、天才的個人ではなく、社会のシステムだということを理解させたかった。

私は、90年代末、韓国のサムスンが自動車メーカーを創立するという壮大なプロジェクトに、あるコンサルファームの一角に入って参加した。私の担当領域は、あるべき企業文化の体系を創ることだった。

目標とする企業文化理念を創り、実現するための人事制度や評価システムを体系化することによって初期の企業文化を構築しようという試みだ。しかし、それを実現するために何より重要なことは、その事業自体が成功することだ。成功して初めて、あらゆる事前の計画が意味を持ち、組織的価値として行き渡り、結果その企業文化は伝統として定着する。したがって、成功に向けて組み立て中の他のコンサル分野とは密にコミュニケーションを図っておく必要があった。例えば、調達、製造技術、製造工程、販売体制、マーケティング等々、あらゆる領域との情報交換が重要だった。

その過程で、思いがけない具体的な困難が多数発覚したのだ。例えば、部品メーカーの製造技術精度が成熟していないと、部品それぞれの重量が指定された精度の範囲内に収まらない。先発メーカーからの政治的圧力もあって、自動車部品製造に経験のない町工場の技術で賄わなければならなかったのだ。エンジンルーム内の部品の総数と重量は相当なものになるから、設計通りの重量をオーバーすると、車全体の重心の位置が微妙にずれてしまう。結果、期待通りのパフォーマンスを発揮できないのだ。

また、車の外板パネルを成形する薄板鋼板のプレス成形機は一台で総重量100tを超すという。日本からそれを船で釜山まで運び、4つぐらいに分解して工場予定地まで運ぶことになった。しかし、当時のその道路は25tの重量物を運ぶことを想定されてはいなかった。結局道を補強し、橋を架け替えしているうちに、工場の工期は大幅に遅れ、当初予算は倍近くに膨れ上がってしまった。つまり、その時代の韓国のインフラは、新たに巨大な自動車メーカーを生み出すまでには成熟していなかった。年間100万台規模の量産を目指すとなると、保険制度や中古車市場、高速道路やガソリンスタンドから駐車場にいたるまで、壮大な規模の社会インフラの拡大整備を必要とする。車のデザインは日産の協力のもとにすでに出来上がっていたし、製造ラインも準備は整っている。サムスンの資金力は潤沢だし、優秀な人材も揃っていて、士気も高かった。しかし、それだけでは実現できないのだということを思い知らされたのである。

講義では、それ以外にも建築の独創的な設計と、それを実現するための構造材や、ジョイント部材メーカーの技術やコストダウン策、それらを現場に運ぶ物流システムの整備が必要になることなどの具体的な事例をいくつも紹介することに努めたのだった。

講義の初日には、それらの話につなげるためのツカミとして、レオナルド・ダ・ビンチを常に引き合いにだしていたのだ。

その意味でも、ここはぜひとも実物の作品をじっくりと鑑賞したかった。

 

 

黄色いベスト運動(Mouvement des Gilets jaunes)

レオナルド・ダ・ビンチ展が開かれている2020年1月のパリは、黄色いベスト運動(Mouvement des Gilets jaunes)のさなかで、交通機関も大幅に混乱していた。コロナ禍が一気に蔓延する2ヶ月ほど前、話題はもっぱら過激化する街頭デモと、交通マヒのことだった。私達は車でのパリ行は諦めて格安フライトを予約することにした。昔なつかしいオルリー空港着の国内線である。

国内格安便をネットで手配したが、つい見間違って、帰りの便はなぜかリヨン経由にしてしまった。帰りの便をわざわざ遠回りさせる格安便があるとは思いもよらなかった。気づいたのがしばらくあとからだったので、再予約も面倒だし、特に急ぐ旅でもないので予約はそのままにした。

 

1月14日の午後の便でビアリッツ空港をあとにしたが、たまたま飛行機内で目にした新聞のトップ記事に驚いた。あのフランス最高峰の超エリート養成校ENAが廃止されるというのだ。

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ENAを廃止するという衝撃的なニュース

これから向かうパリは黄色いベスト運動で燃えている。まさにそれに対してマクロン大統領が打ち出した改革策のひとつだという。

ENA出身という人には東京でも何人かに会っているが、その1人はエコール・ポリテクニーク(理系グランズエコールの最高峰)を卒業後、20代でアメリカのアインシュタインが教えていたプリンストン大学の物理学教授として招かれ、教鞭をとっていた。そのあと、帰国してENAに入り、卒業後フランス財務省に入省したということだった。そんな経歴の持ち主がごろごろしているところだ。歴代大統領も多く輩出していて、マクロン大統領自身がエナルク(ENA出身者)だ。ゼネストに対応してENAをなくしてしまうとは、一体何が起こっているというのだろう。

そもそも、黄色いベスト運動なるものが門外漢の私にはよく分からない。発端はディーゼル燃料の値上げ反対に端を発しているとはいえ、従来のストライキやデモとはかなり趣を異にしている。

特徴は、運動の中心的リーダーがいないこと、SNSを駆使したパリ中心から地方へのデモの拡散、従来の左右の対立よりはエリートの特権性の否定などだという。

私はふとハイコマンドという言葉を思い出した。ハイコマンドとは、新自由主義を解説する際に、従来の少数エリートによる計画的経済運営、つまりハイコマンドを否定し、市場の自由競争原理に経済の主導権を委ねるという解説に使われた言葉だ。民営化政策の理論的背景でもあった。しかし、新自由主義的政策を打ち出しているはずのフランスでは、ハイコマンドの頂きこそが、全ての不平等、格差の源だという批判が巻き起こった。ハイコマンドの象徴であるENAには確かに貧困層からの入学者はいない。

マクロン大統領は、国民に対する約束として、ENAの廃止をすでにだいぶ前から訴えていたという。

しかし、エリート層が支配するフランスの体制を改革して、地方や貧困層に富を分配せよという運動を収めるために、それが直接役に立つ政策とも思えない。超エリートとは、どんな環境からでもむくむくと這い上がってくるものだ。そもそもリーダーレスの運動体と政府とは対話の方法もないのだ。今や何が主たる運動目標なのかも分からない暴動も起きている。公共交通機関はほとんど動いていない。

 

オルリー空港につくと、すぐにタクシー乗り場に向かった。乗り場には昔と違って管理体制がかなりしっかりと機能していて、係員に順番に誘導される。パリ左岸行き乗り場にも長い行列があったが、次々と裁かれて行き、そう待たされずに乗り込むことができた。私達が目指す5区はセーヌ川左岸、€30の固定料金制だ。

予約してあるB&Bホテルは、5区学生街の真ん中Rue Mongeに面している。私が50年前住んでいたところからもすぐ近くだ。建物2階(日本でいえば3階)の入り口には、チェックイン受付担当のアジア人女性が待っていて、鍵や中の使い勝手を説明してくれた。入り口ドアの内側には、さらに3つのドアがあって、客室は3部屋あるらしい。部屋は狭いが、かなり合理的にできていて、2泊ぐらいであれば我々にも耐えられそうだ。朝食用の飲み物や軽食も小さなキッチン脇に揃っている。3部屋共通の玄関の壁面には、おりからの交通マヒに対応するかのようにキックボードが備え付けられている。自由に使っていいという。

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ホテル入口壁面に据え付けられたキックボード。自由に使っていいという。

 

お腹も空いてきたので、すっかり暗くなってはいたが、勝手知った街に繰り出した。近くのPlace de la Contrescarpeは半世紀前に2人でよく訪れた小さな広場だ。広場を中心に、周りを囲むようにレストランやバーが立ち並んでいる。その後も何度か訪れた事はあるが、店はすっかり変わっている。ただし、建物自体はほとんど変わっていないので、街を歩く分には迷うことはない。街には学生っぽい若者が沢山いる。昔ここにはギネスのバーがあったとか、いやあっちの角だったとか会話がはずんだ。懐かしい街をぶらぶら散策してから、小さなレストランに入った。久しぶりに生牛肉の料理、ステック・タルタルを堪能した。庶民的な赤ワインもうまかった。翌日はいよいよ、ルーブル美術館だ。

地下鉄は時間が読めない変則的間引き運転中なので、入場予約時間に間に合わせるには歩いて行くほうが安全だ。若い頃、よく歩いたセーヌ川沿いの道をたどって行けばいい。久しぶりのパリ散策には一番いい通りかもしれない。