国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその4

004

■車を買う

もう一つの基盤整備は、こちらでの通常の生活を円滑に進めるための様々な準備である。

まずは足(車)の確保。

我々が住んでいるエリアは、銀行、郵便局、薬局からパン屋に高級惣菜店やコンビニ、さらに様々な専門の医者や歯医者まで、徒歩圏内にほぼ必要なすべてが揃っている。また、バスを使いこなせば、スーパーやショッピングモールから海辺のプロムナードやレストランまで出かけるのに、24時間2€(約240円)で乗り放題、何をするにも不自由はない。

ただ、食料品4〜5日分の買いだめや、時に身体の動きに問題がでるNADIAと一緒に外出するときには、やはり自分の車が必要となる。東京や富士山の別荘でも、長い間、車が当たり前の生活を送っていたせいもあって、まずは車を買おうということになった。

以前からフランスで長期滞在するときには、プジョーのTT transitのシステムを利用していた。

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フランス国外滞在者向けサービスで、日本で手続きができる。新車を買ってド・ゴール空港で受け取り、出国時に中古車として売る。金額は事前に決めてあり、差額を出国前に日本で支払うというシステムだ。1ヶ月以上利用する限りは、レンタカーに比べるとかなり安上がりだ。日本でこのシステムを利用できるのは、知る限りプジョーだけだった。したがって、何度も利用していると、自然に、買うならプジョーということになっていた。

佳鈴のパートナーの車はホンダだし、もともと友人から譲ってもらった小さなオートマのシトロエンを佳鈴に預けてもあった。それを使ってもいいのだが、オートマとはいえ、坂道発進で後退はするし、加速もいまいち。躊躇なくプジョーの新車を調達することにした。SKODAなどあまり聞いたこともない東欧製の車とか、日本に比べて車のブランドは、ヨーロッパ製だけでもやたら豊富だ。

 

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もともとさほど車に思い入れもなく、いちいち比較検討するのも面倒で、迷いなくプジョーのディーラーにでかけた。

翌年の春新発売予定の超高機能なハイブリット車や、かっこいいデザインの新車がたくさんラインアップされていたのだが、我々の切実な要望はとにかくすぐに入手できるもの。いろいろ、デザインや排気量の違うものなど検討したものの、一番早く手に入るものは、プジョー208 GT LINEのオートマ車で、黒の試乗車だけということがわかった。

 以前に比べてオートマ車も大幅に増えたとはいえ、未だにフランスの主流はマニュアル車だ。プジョーオートマ車トランスミッションは日本製だという。試乗車なので、値段も安くできるというし、オンボロシトロエンも下取りしてくれるというので、躊躇なくそれに決めた。

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10月13日(日)販売促進キャンペーン中のディーラーを初めて訪れて、その場で即決したことになる。

今のカーディーラーはローンやリース販売での利ざやで稼いでいる。ある意味金融業に近い業態になってしまっているようだ。したがって、ローンやリースでの購入を強力に勧めてくる。我々はキャッシュでもどちらでも構わないが、リタイアした外国在住者と外国籍の人間が、ローンやリースの信用審査に適合するものかどうか、常識的に考えてもかなり疑問だ。しかし、担当セールスマンはどうしてもローンかリースにしたいらしく、執拗に審査に応じるように勧めてくる。今更、年金収入などこんなところで証明する気もないのだが、自分の信用度合いを知っておいてもいいかとも思えた。帰宅後、いろいろ書類を揃えて提出したものの、案の定不適格。結局キャッシュで支払う契約にした。様々な証明や保険などの書類を揃えてから納車まで、最短手続きとはいえ12日後の10月25日にやっと受け取ることになった。納車といっても、自宅まで運んでくれるわけではない。ポンコツシトロエンで取りに行く。下取り車をこちらが納車したことになる。

自動車保険は、新車で、すべて込み年間€673.34。支払い時点でのレートで約80,800円。日本での無事故証明書も必要だ。すべての運転者がカバーされる。値引きはしてくれたが日本より少し高い感じもする。比較検討するだけの情報もあまりないのでとりあえずはこれに決めた。

車はコンパクトだが燃費も良く足回りもいい。地下のガレージは積年の荷物やガラクタが満載で、当面は路上駐車しかない。幸いビアリッツやバイヨンと違って、ここアングレットは市内全域ほぼ路駐が可能だ。

あとは、左ハンドル、右側通行にロン・ポワン(信号なしのロータリー交差点)での運転に早めに慣れなくてはいけない。交通標識も日本とかなり違うものもあるし、至るところにスピードバンプがあり、最初は緊張したが、運転はなんといっても慣れだ。

プレインストールしてあるナビシステム(GPS)は2〜3ヶ月も経つと、徐々に道路の規制や改修に追いつかなくなり始めてくる。今はスマホを繫いでWazeという無料のアプリシステムを使っているが、画面も正面のメインスクリーンに表示されるので、車掲載のナビシステムは必要がない。車メーカーもほとんどこの分野には力を入れていないようだ。

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一般的にフランスは運転のうまい人が多いとは思うが、マナーは自分勝手。ウインカー点けずに突然曲がったり、短い一方通行なら逆走なども平気で、怒鳴り合いも日常茶飯時。遠慮などしてはいられないのである。

先日一方通行逆走の車に向かって、通行人が浴びせた言葉には笑ってしまった。「お〜い、ここはマルセイユとは違うぞ!」。

私のように72歳を超えると、日本では免許証返納云々の話も出始めるころだが、こちらでは80歳過ぎでのマニュアル車運転もごく普通だ。もちろん、アクセルとブレーキの踏み間違いや、ぶつけたりこすったりも頻繁にある。しかし、皆そんなものだと思っているせいか、誰もさほど気にしない。

2000年から、日本の車検制度にあたるコントロール・テクニックが施行されて以来、以前よりはよほどましになったとはいえ、ホコリだらけ、擦り傷だらけは、どんな高級車でも一緒だ。わが愛車も2〜3ヶ月で、両側が擦り傷だらけだ。駐車中にいつの間にかつけられていたもので、とても新車とは思えない。

運転手付きの車でも所有していない限り、車にステイタス感を抱いたり、きれいに磨き上げる人など見たことがない。クラシックなオープンカーなんかは、比較的きれいにして乗っている方かもしれない。

むしろ、大型のオートバイの方が見栄えを競う傾向があるようだ。時々、ピカピカに磨き込まれたハーレイや、見たこともない改造インディアン、流麗なデザインのドゥカチ、トライアンフなどを見かけることがある。

しかし、今や2輪車の主流は自転車。電動自転車も増えた。街なかの主要道路にどんどん自転車専用道路が敷設されている。それは自転車用に自動車道路の幅が削られることを意味するので、すぐに渋滞が発生する。車の制限速度も切り下げられるし、スピードバンプだらけだ。そのせいでフランス車のサスペンションは丈夫にできていると聞いたことがある。狭い道が多いので、縦列駐車も縁石をこするぐらいにギリギリまで寄せる必要がある。スケボーやキックボードも急増していて、以前に比べて街なかの運転はかなり難しくなってきていることは事実だ。

逆に高速道路の運転は日本に比べると格段に楽に思える。ほとんどが片道3車線で、トラック類は右端車線走行をきっちりと守っている。合流車線も長く、4車線がしばらく続くので十分加速してから本線に合流できる。最高速度は130kmだが、前の車についていると気がつけば大きく140kmを超えていることがよくある。車は小型でも高速走行対応がしっかりしていて、サイドミラーの風切り音も少ないし、安定感もある。スピードオーバーに気が付かないのだ。何より東名などに比べると車の数が圧倒的に少ない。もっともバカンス時期のパリ周辺の渋滞は最悪ではある。

ともあれ、1〜2ヶ月、毎日運転すれば、フランス流の自動車運転事情にもすっかり慣れる。逆に日本に帰った時が心配だ。

長期滞在者にとっては、運転免許証も厄介だ。日本でとってきた国際運転免許証の有効期限は1年だ。日本に戻りさえすれば何度でも新しいものを発行してもらえるが、フランスでは1年以上の滞在者はフランスの運転免許証しか認められない。フランスの自動車学校か、ネットの教習課程を受講して正式に取得する方法と、もう一つは、日本の免許証をフランスのものに切り替える方法とがある。ただ、日本の免許証はその段階でなぜか没収される。EU全体の決め事で、テロ防止策として最近一律にそうなったらしい。もっとも日本に帰ればすぐに再発行は可能なので、私は当然後者を選んだ。ただ、必要な書類の整備がいろいろ厄介だ。日本から運転経歴証明書を取り寄せ、日本の運転免許証と一緒に法定翻訳家(traducteur assermenté)による翻訳版(traduction certifiée)が必要だ。翻訳そのものは、ネット上で法定翻訳家さえ見つけることができればそう難しいことはない。書類をスキャンして翻訳家に送れば、それを訳して法定翻訳認定スタンプにサイン入りのPDF版を送り返してもらえる。それでWEBでの申請は可能だ。実物は郵送してもらったものを後で県庁の窓口に一式そろえて持ち込めば用は足りる。翻訳料は運転免許証の裏面程度でも、A4版の経歴証明書でも1枚あたり€30。私の場合はトータル€90、約1万1千円程度だった。

証明写真も写真屋で頼めば、コード番号とQRコード付のデータを渡してもらえる。こちらのサインも入ったデータは写真屋の方からアップロードしてあるので、WEB申請時にコード番号を入力すれば、写真は添付しなくても済む。大きさも必要に応じて相手側で調整できるから便利だ。€10(約1200円)と若干高めだが汎用性があるので、安上がりかもしれない。

厄介なのはデジタル化が全く進んでいない日本側の方で、誰かに頼んで、自動車安全運転センターから運転免許経歴証明書を取り寄せてもらわなければならない。最近やっと英語版を発行してくれるようになったがすべて紙だ。とりあえずはそれをスキャンしたものを送って貰えば、翻訳とWEB申請までは間に合う。ただこのコロナ禍の影響で、あらゆる事務手続きが日仏両方で大幅に遅れていて、国際運転免許証の期限が来る9月27日までには到底間に合いそうもない。何しろ申請に必要な滞在許可証の取得自体が間に合っていないのだ。滞在許可証がなければ、そもそもその延長の申請ができないのだ。

今の入国制限が続く状況では、ビザ期限の10月2日以前に2人そろって日本に戻ることは全く目処が立たない。そして期限を過ぎたからといって、現実的に車の運転をやめるわけにはいかない。大きな手術も控えているのだ。

はてさて、どうなることやら。

もっとも、この1年、一度も運転免許証の提示を求められたことはない。

日本の国際運転免許証は不思議なことにサインはローマ字でと規定されている。私のサインはパスポートもクレジットカードやその他すべてのサインも漢字体だ。日本で国際免許証を発行してもらう際に、その旨質問したのだが、決まりがローマ字だと言うばかりで、理由などは答えてくれない。どこの運転免許センターでも毎回同じだ。こちらで万が一事故でも起こして、パスポートと免許証と両方の提示を求められた時はどうなるのだろう? 明らかにサインが違う。まあ、海外でのそんな事例は山のようにあるはずだし、今まで改めずに済んでいるということは、大して問題にもならなかったに違いない。

こんな時期は何事も楽観的に考える他ない。

どっちを向いても私に落ち度があってことが進まないわけではない。

知ったことか!という気分だ。

いつものスコッチBOWMOREをストレートでグビリと流し込む。うまい。

 

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその3

003

配偶者ビザ

私のフランス滞在ビザの申請手続きは、出発予定の3ヶ月ほど前、2019年6月から開始した。手続きの開始は入国予定日の3ヶ月前から可能となっている。

まずは、在日フランス大使館のWEBページから、窓口申請の予約申し込みをすることから始める。申請は日本語でもできる。ただし、電話等での問い合わせは一切できないとある。フランスの公共機関の事務手続きは一気にIT化、いわゆるデジタルトランスフォーメーションが進んでいて、今や日本のそれをはるかにしのいでいる。

とはいえ、申請書をダウンロードして必要事項を書き込み、掲載リストに従って、申請に必要な書類を一式そろえて、予約指定日時に、麻布にあるフランス大使館玄関横のビザ申請窓口に出向かなければならない。

私の場合、予約は7月29日(月)11:30、暑いさなかのアポである。

早朝に車で別荘を後にし、御殿場駅に隣接する駐車場に車を入れると、新宿着10:27の特急電車に乗り、新宿から地下鉄を乗り継いで広尾駅まで行く。そこから大使館までは10分ほどの歩きだ。朝8時過ぎには富士山麓を出発したから、全行程はかなりなものになる。

炎天下、外でしばらく並んで待たされた後、順番に狭いセキュリティーチェックゲートに招き入れられる。狭いせいか、さほど威圧感はないが、金属探知ゲートをくぐって中に入ると、正面に透明防護板でシールドされた個別窓口がずらりと並んでいる。見たところ、待合室の人種はかなり多様だ。名前を呼ばれて窓口に行くと、フランス人男性職員がにこやかに応対してくれる。日本語もうまい。一通り添付書類をチェックされた後、実際のフランス入国予定などいくつかの質問に答え、窓口下に備えてあるスキャナーで、両手指すべての指紋をスキャンされ、その場で写真も撮られる。配偶者ビザ申請者には手数料はかからない。日本のパスポートはそのまま預け、後日ビザシールを添付して自宅まで郵送してもらうことになる。

翌日自宅に電話が入り、申請資料のスキャンデータの一部が不鮮明なので再度解像度の高いPDF版を送ってほしいとの要請があって、すぐに対応することになった。それでも申請から1週間ほどで1年間有効のビザシールが貼られたパスポートが無事郵送されてきた。フランスでの就労も可能だ。これで、長期ビザでの入国ができる。ただしこれは長期滞在認定手続きのほんのスタートにすぎないのである。

 

滞在許可証

入国後、3ヶ月以上滞在する予定の者は、ビザとは別に滞在許可証を取得しなければならない。滞在許可証取得までには、その後も様々な必要手続きが待っているのだ。

まずは、日本で言う収入印紙代にあたる€250(約30,000円)を払い込まなければならない。手続きは早めに済ませたいので、私は近所のタバコショップで入国1週間後の10月8日に払い込んだ。領収証は、提示を求められることがあるので、しっかりととって置かなければならない。私はパスポートのビザシールの表示されたページに挟んでおくことにした。

ちなみにフランスのタバコショップは日本のコンビニ的な機能も持っていて、公共料金の支払いや、郵便や宅配便の受け取りサービスもやってくれる。

 

年が開けてしばらくすると、1月16日付けでOFFI(フランス移民局)から私宛の召喚状が送られてきた。

2020年2月4日にボルドー(Bordeaux)の移民局への出頭要請である。

ボルドー(Bordeaux)は私達の居住地域をカバーするヌーベル・アキテーヌ地域圏の首府にあたる。自宅から車で北に2〜3時間ほど行ったところに位置する、人口25~6万人の都市である。街の中央を流れるジロンド河に造られた港から大量のボルドーワインを積んだ船が河を下って大西洋に出ると、世界中に高価なワインを売り捌き巨万の富をこの街にもたらした。その名残の豪華な建物がここかしこに残っている。

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友人宅のマンション入り口 螺旋階段を上がったところにエレベーターがある 

住居部分の部屋の天井高は5mある

また、多くの大学や研究所を擁する一大学園都市でもある。人口に占める学生数はフランス随一だという。世界中から学生が集まる若者の街でもあるのだ。

2月4日は、午前中に専用診療施設でレントゲン検査、午後には移民局の施設で、フランス語の能力検定試験と面接、さらにメディカルチェックを実施するとある。フランス語の初歩検定をパスできなかった者には、改めてレベルによって100時間、300時間等、何コースかあるフランス語の履修義務が科せられる。ただし全て国費だ。

難民の大量流入やテロ事件などが繰り返されるにつれて、フランスの移民政策は年々厳しくなり、改正に改正を繰り返していて、少し前の経験者の話は全く役に立たない。ただ、フランスに3ヶ月以上滞在しようとする外国人は、移民とみなされ、フランスで暮らすのに最低限必要なフランス語とフランス文化や法律の知識、健康管理を徹底するという基本姿勢は伝統的に変わらない。どんな外国人であろうと、フランスのアイデンティティの根幹を守りさえすれば、フランス国民と同等の制度的恩恵も受けられるという理念がある。

移民という言葉に違和感もあって、大きなお世話だと思う気持ちもないわけではないが、ここは、アウェイの文化圏。自ら望んで乗り込んできた以上、素直に従うしかない。

ボルドーには、NADIAの少女時代からの親友の一人も住んでいる。

ここは友人宅訪問も兼ね、2泊ほどの時間的余裕を持って前日から訪ねて見ることにした。出頭先や、友人宅からも徒歩圏内の都心にホテルを取り、前日の2月3日午後には車で現地入りし、訪問先を事前確認することも怠らなかった。

4日は、10:15に市内のレントゲンセンターへの出頭が指定されている。10時ごろセンターに入り、受付で召喚状とパスポートを提示、待合室で待機する。待合室には多様な国籍の人々がすでに待っている。見るからに付添の人間と何語かわからない言語で話している何人かを除くと、ほとんどがスマホに目を落としている。

しばらくして、白衣のインド人風看護士に呼ばれて、レントゲン室に入る。どこにでもありそうなごく普通のレントゲン撮影機材が、殺風景な部屋の真ん中にデンと鎮座している。上半身を機材に合わせて、ごく普通に息を止め、あっけなく撮影が終わる。極めて事務的な流れ作業のような手順が進んで、しばらく待合室で待っていると、これも極めて事務的に撮影データと所見の記された資料の入った封筒を渡される。所要時間30分ほどのあっけない作業であった。

次のアポイントは、午後1:30である。場所も昨日のうちに調べてあって、歩いて5〜6分しか離れていない。NADIAと2人で近辺をぶらぶら散歩することにした。昼食には少し早いし、しっかりランチを取るには1:30 からの試験を控えて落ち着かない。台所用品などの店を見つけては、ウインドウショッピングしながら時間をつぶす。昨日ホテルのそばの凸凹な歩道でNADIAが躓いて転倒したこともあって、無理はしたくない。それにしてもフランスの道路は車道も歩道も凸凹で、道幅も意味なく広がったり、狭まったり歩きにくいことこの上ない。足の不自由な人間には最悪だ。

移民局のオフイスからすぐのところに、セルフサービスのサンドウイッチショップを見つけ、そこで早めに簡単なランチを済ますことにして店内に入った。その代わり、ディナーは少しいい店に出かけることにしたのだ。

1時を少し過ぎたころにNADIAと別れ、OFFI(移民局)の事務所に向かった。1:30まではドアもしっかりと閉じているようで、道路にはすでに人の列ができていた。

アラブ系とアフリカ系の家族連れが多いようだ。白人系やアジア系は見当たらない。

1:30きっかりに担当者らしき人が現れて、一人ひとり召喚状をチェックすると、順番に中に案内してくれる。当事者以外は入室禁止だ。不安げに入り口で見送る家族が結構いる。入り口を入るとすぐにセキュリティチェックエリアがある。空港のチェックと同じ要領で探知機をくぐって手荷物を受け取ると、そこは待合いスペースになっている。

最初はフランス語の能力検定試験だ。何をどう検定されるのか予備知識はゼロだ。

学校の教室風な試験ルームに案内されると、入り口で一人ひとり身分チェックを兼ねた質問をされる。乳母車に赤ん坊を乗せて一緒に出席する若い母親もいる。私は英語で対応させてもらったが、今日は英語を必要とする人がほとんどいないので、試験のときには英語の通訳はないという。通訳はアラブ語だけだ。私だけが極端に年齢が高いせいか、試験官から、以前にこういうところに来たことはあるか?と聞かれた。あると答えたら、いつだ?と問われたので50年ぐらい前かなあと答えると、笑いながらその時代にはこういった施設は存在していなかったと言われた。確かに記憶はない。いい加減だ。

ただ、半世紀ほど前、学生ビザを取得してパリ大学ソルボンヌヌーベルという教育学部のフランス語コースで学んだ事はある。フランス語を外国人に教える教師を養成する学科で、学生から始めて真面目に資格をとって進級すれば、教える側になって、各国にあるフランス語学校で教えることができるコースだった。学生はいろいろで、上海の中国共産党から派遣された学生とか、ソ連の都市計画設計家やトルコの弁護士など、それなりの社会人も混じっていた。教師は若いベトナム系の独身女性で、成績評価が甘々だったのをいいことに、一緒に海水浴に行ったり、私の住まい(ビリオネアの住居だが)にあった音楽ルームに学生を集めてミニコンサートを開いたりと、真面目に勉強した記憶はない。友人のフランス人女子学生に家庭教師になってもらって自宅に通ったりもしたが、いつも酒を飲みながら楽しく過ごすのが常だったので、正直フランス語は全く身につかなかった。それでも甘々の教師のおかげで、コース合格終了のディプロマはもらえたのだが、すぐに結婚し、東京に渡ってほぼ半世紀。片言の挨拶とレストランのメニュー指定程度の語学力はその後も全く進化がないのだ。

テストは、A4 5〜6枚の紙を渡され、机の上に裏返しに置いたまま、事前に内容や注意事項の説明がある。説明はフランス語でアラブ語の通訳付きだ。まあ説明内容はよくわからなかったが、ごく常識的なことに違いがないだろう。

テストはページをめくるごとに難しくなる構成だ。最初は答えも選択式で、フランス語がわからなくてもほぼ答えの見当がつく簡単な内容だ。少々わかりにくい設問でも、回答の選択パターンを推理すればほぼ正解の推測はつく。このあたりから語学の試験を受けている感じがしなくなる。一種の推理ゲームだ。

次はパリのどこどこで用事があって、地下鉄を乗り継いで現地まで到達しなければならないといった設定の文章と地下鉄の路線図が記されている設問だ。目的地に到達するまでの乗り換え駅名と、目的の駅名を特定せよという。パリでしばらく生活した経験のある人間にとってはなんとも簡単な質問だ。質問内容の理解度を試しているのだろうが、質問の全体像さえつかめれば回答の推測はつく。これもあっという間にクリアだ。

最終問題は、アパルトマンの向かいに住む人を、初めて食事に招待するための招待状を書けというものだった。私はフランス語を読む分には簡単な文章であれば、少しはわかるが、書くとなるとお手上げである。発音とスペルがまるで一致しない単語なんか綴れっこない。

そこで、2〜3ページ前の設問を利用できることに気がついた。何月何日何時にどこどこの警察署に来てください、という通知書をもとに問題が設定されているものだ。日付や曜日のスペルや語順はそこから拝借し、呼び出しの構文は招待状とは違うが、意味ぐらいは通じるだろうと、なんとなく書き上げた。ボロボロだが零点にはならないだろうと踏んだ。

時間がきて、解答用紙が回収され、しばらく休憩のあと、個別面接が行われる。

私の担当は若いにこやかな男性だった。もっとも、私から見れば現役の就労者はどこでもみんな若者である。

彼はすべて英語で対応してくれた。私がフランス人と結婚してすでに46年もたっている高齢の年金生活者であり、フランスの国籍がほしいわけでも仕事がしたいわけでもないことから、質問も冗談交じりのほぼ世間話のような面談だった。

しかも、先に受けたフランス語の試験が思いの外高得点だった。50点満点中37点だったという。100点満点に換算すると74点だ。なんと初歩のフランス語能力(A1)は合格。フランス語研修義務も免除されるという。カンと要領でクイズに合格したような気分だ。

最後に、フランス共和国の法律を遵守する旨の誓約書にサインし(A1レベルのフランス語能力を有している旨の証明も記されている)、そのコピーを受け取って終了した。

気を良くして、次のメディカルチェックも調子にのって英語でジョークを連発。相手に通じていたかどうかは知らないが、とにかく上機嫌で全行程を終えた。

私に課された次の課題は、伝染病の混合ワクチンの接種(日本にはない制度だが、フランス国民には接種義務がある)と、県都ポー(PAU)での市民講座(履修義務がある)4日間の履修だ。3月19日と3月26日の2日分がすでに指定されていた。朝9時から昼食(オファーされる)を挟んで、夕方5:00までびっしりカリキュラムが組まれているという。

待合室に戻ると、なんとNADIAがそこで待っていた。当事者以外家族の入室は禁止のはずだが、もう終わりの頃だし、警備のおじさんと仲良くなって入れてもらえたらしい。足が悪そうなのも効いたようだ。周りは意外と深刻な顔をした人が多い中、笑顔で現れた私が、談笑中のNADIAに日本語で明るく話しかけている姿は、傍からみると場違いに浮いていたかもしれない。

ボルドーでは翌日、2016年にオープンしたばかりの、奇抜な外観で話題のワイン博物館(La Cité du Vin)を訪れたあと、帰途についた。

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ボルドーのワイン博物館

車での気まま旅でもあり、移民局でのテスト結果に気を良くしたこともあって、途中、海辺のリゾート地、アルカション(Arcachon)に立ち寄ることにした。いいホテルが空いていたら一泊しようということにしたのだ。シーズンオフでもあり、混んではいないはずだ。うまい魚介料理が期待できる。

幸い、海沿いの良いホテルに飛び込みで泊まることができた。ビアリッツ界隈の海とは違って深い入り江の遠浅の海は波もなく、湖のように穏やかな海岸だ。翌日にはすぐ近くの有名なピラ砂丘(Dune du Pilat)に登ることもできた。

しかし、軽い気持ちで砂丘の急坂を登ってみたのだが、この歳になってこれほど体力的にしんどい思いをするとは思わなかった。あまりにきつくて写真も撮り忘れてしまった。頂上での動画はあるが、疲れてつい長回しにしたのでデータ量が重すぎる。投稿はやめた。2月初旬のFBにはのっけた覚えがある。とにかく年寄りにはおすすめ出来ない。私も二度と行くことはないだろう。

しかし、このときはまだこれほどのコロナ禍に見舞われるとは露ほども感じられなかった時期だった。これを最後に、その後しばらくはどこにも外出できなくなってしまったのである。

当然、ポーで指定された3月中の市民講座にも出席は不能だ。ただ、何の連絡も来ないし、電話でもメールでも通信不能時期が続いた。

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその2

002

■フランス医療体制へのコミット

フランスに着くと早速、かかりつけ医と密接なコンタクトをとって、専門医の紹介や調剤薬局、各種検査体制等との連携ネットワークを創ることに集中した。そしてフランスの健康保険制度に対応する手続きなど、バイヨン(Bayonne)にあるCPAM(医療保険一次金庫)に足を運んで対応を相談し、必要書類の整理・取り寄せなどに集中して取り組んだ。

幸い、歩いて2分ばかりのところに診療所を構えるドクターは、CARINE一家のかかりつけ医でもあり、数年来我々も何度かお世話になっている。

事情を説明し、まずは日本で処方されている薬と同じもの、あるいは同じ効能のものを調べてもらい、処方箋を出してもらった。そして、すぐ近くにある薬局で、とりあえず必須の薬を処方してもらったのである。

ただ、この薬局の調剤システムが大変で、この件に関しては改めてまとめようと思っているが、薬はすべてメーカーのパッケージごとの箱売りなのである。患者側がバラバラの容量の薬を箱から出して自分の服用順に整理しなければならないのだ。10数種類の薬を朝昼晩さらに就寝時間前等、それぞれの服用数も整理して毎日服用しなければならない者には、とんでもない負担がのしかかる。このときほど、日本の薬局がありがたいと思ったことはない。

結局、渡仏後1〜2ヶ月の間に、腸の精密検査で検査入院をしたり、パーキンソン病の専門医の診療所を紹介してもらって、新たな薬の服用計画も独自に進めることができるようになった。リンパマッサージ師の手配などもできて、週2回の往診をしてもらえるようにもなった。

また、ドーパミン系の強い薬を大量に常用しているせいか、急に言葉がつかえて出なくなることがしばしばあって、かかりつけ医からOrthophoniste(オートフォニスト)なる専門家を紹介された。日本語では言語(発音)矯正士とかスピーチセラピストとか言うらしいが、日本にいたときには全く知らない医療専門家だった。心理的ストレスを取り除いてくれるエクササイズがいろいろあって、かなり落ち着きを取り戻すことができた。

これらすべてが保険制度の適用対象であり、任意の民間医療保険制度と合わせて対応する医療制度のもとで、基本的に医療費を直接支払うことはない。

この医療制度には、外国人であっても3ヶ月以上滞在する者には、規定の手続きさえ踏めば分け隔てなく適用される。移民、難民が押し寄せてくるはずだ。

こうして一通りの治療体制を確保することができたのである。

それにしても、フランスは理念の国であることを実感する。

フランス革命を支えた人権宣言に基づく国是「自由、平等、博愛(Liberté, Égalité, Fraternité )」の「Fraternité」、日本語では「博愛」と訳されているがなかなか難しい概念だ。在日フランス大使館のWEBでは「友愛」と訳されている。共和国市民相互の互助愛精神とでも言うべきものだが、単なる標語だけではなく、具体的な法律や様々な社会制度にしっかりと落とし込まれているのだ。

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フランス政府のロゴ デザイン的にも厳格に管理されている

フランスはすでに栄華を誇った時代の国力は、はるか昔に失っているにも関わらず、この理念に基づく制度は決して変えようとはしない。たとえ消費税が20%になっても、国民が血税でこれらの制度を支えているのだ。移民や難民に対してまで施される手厚い福祉政策はいつまで維持できるものか、外国人から見れば心配にはなる。これに寄生しようと押し寄せる移民難民を目の当たりにすれば、極右勢力が台頭するのもわからないではない。ただ、今のところは、財政改革を唱えてここに踏み込もうとすればすぐに大規模なストや暴動が起こり、たちまち政権は持たなくなる。共和国の理念はフランスのアイデンティティの根幹であり、全てのフランス的なもの、フランス文化が依って立つ基盤でもあるのだ。

市民革命の遺産は深く重い。

 

 

国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行

団塊世代ドロップアウト派に属する私は、1973年にパリでフランス人女性と結婚し、新婚旅行で日本に来たまま2019年で46年が過ぎてしまった。脱落人生とはいえ、東京に半世紀近く住んでしまえば、それなりの生活基盤やネットワークも出来上がる。72歳と68歳になった老夫婦は、身体中に多くの不具合を抱えてもいる。にも関わらず、あえてこの歳になってフランス南西部、バスク地方にあるリゾート地、ビアリッツBiarritz)に移り住むことにした。そこで晩年を過ごす心づもりだ。

この紀行は、2人の2019年10月からの危なっかしい試みの顛末を綴るものである。

しかも現地に着いた矢先のコロナウイルス禍。何やらハプニング続きの大混乱に見舞われたが、ドロップアウト派にはハプニングは付きものでもある。その時々の、素の思いを記してみたいと思っている。ただこの歳まで年齢を重ねると、小さな出来事一つにも、過去の様々な歴史が、入り組んで深く結びついていることもよくわかる。ときに時間を遡りながら、経緯を詳述していくつもりだ。

読者諸氏が疑問に思うことやご質問等があれば、ぜひ問いかけていただきたい。特定の個人に迷惑が及ばない限りは、詳しくお答えしていこうと考えている次第だ。 

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001(2020.9.14)

日本出発

2019年10月1日午後、妻Nadiaと二人で富士山麓から御殿場駅前の日産レンタカーまで出向き、予約してあったマーチを受け取ると、愛車レガシーとマーチそれぞれに分乗して別荘まで引き返した。いよいよ本格移住の開始である。

別荘に戻ると、最後の点検と戸締まりを確認し、準備しておいたスーツケース2個と手荷物を、後部座席を倒した小さなマーチの後ろにぎゅうぎゅう詰めにして、羽田に向かって出発した。

レガシーは譲渡先がピックアップに来るまでここに置いておく手はずだ。

1〜2ヶ月ほど前からこの日の出発に向けては、細かい行動チェックリストを作り、それに沿って、一つ一つ順調にこなしてきた。

私のフランス長期VISAの取得、Nadiaの再入国許可証の取得、国際運転免許証の取得、郵便物の転送手続きやNHKの解約にBS有料チャンネルの解約、別荘管理会社との建物内点検・メンテナンスサービスの契約。車の譲渡手続きに伴うJAFや保険の解約と英語版保険等級証明書の発行手続き等々、大小、山のような手続きや作業を滞りなく済ませてきた。細かいものでは、各種の鍵の保管場所記録や、調味料の保管場所からDIY道具のありかなど、スマホの忘備録写真は100枚を超える。

最後に1年ほどは見納めになる秀麗なる富士山をしばし仰ぎ見ると、大して感慨もないまま次の細かなメニューを淡々とチェックしながら富士山南麓の別荘をあとにした。

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裾野インターから東名高速に乗り、首都高速横浜線経由で羽田空港近くのレンタカー店舗まで約2時間弱。マーチを返却し、送迎バスに乗り込んで国際線ターミナルまで送ってもらう。

途中バスの運転手宛に電話が入り、ETCカードを抜き忘れて来てしまったことが発覚。

チェックリストにはしっかり書き込んであったのだが、すっかり忘れてしまっていた。結局、後日東京の長男太輔の住所に郵送してもらうことにして、スマホ解約のために空港ドコモショップへ直行した。

スマホの解約手続き自体はさほど面倒ではないが、解約日付が10月1日。1日だけ10 月に食い込んでいるために、丸まる1ヶ月分が契約期間としてチャージされるルールなのだそうだ。それだけで1万円が追加引き落としされることになってしまった。それにしても日本の携帯キャリアの料金は高すぎる。

1992年、NTTドコモブランドを世に送り出す仕事に従事した身としては、健全な競争市場を作って料金を下げようという大目標が、思惑どおりには進まなかったことに悔いを残したまま日本を後にすることになってしまった。

 

AMEXの荷物別送サービスを利用して、事前に空港サービスカウンター宛に送っておいた大型スーツケース2個を受け取ると、エールフランスのチェックインカウンターへ。

手続きが終わると、NADIAの体調を気遣って、わざわざ空港まで見送りに来てくれた長年の友人MIMIさんに誘われて、回転寿司屋で軽い夕食をともにした。MIMIさんは、NADIAとフランス大使館勤務時代からの友人だが、ご主人のパリ勤務に同行してフランス在住歴も長いフランス通だ。磊落でいつも周囲を明るくしてくれる気のおけない友人だ。

MIMIさんにも別れを告げ、いよいよ出国ゲートへ。免税店を覗いてみたら、5万円以上もするサントリーウイスキー山崎が1本だけ売れ残っていた。これでも安い方なのだという。まあ、お土産は100円ショップ系を十分に詰め込んである。何も買わずにエールフランスのラウンジまで行って、白ワインとツマミで搭乗時間まで一休み。普通の旅行や出張と違って、ここまでで結構疲れてしまった。

羽田発エールフランスのパリ直行便で、パリ、ド・ゴール空港まで飛び、国内線に乗り換えてビアリッツまで最短時間でたどり着くには、羽田を夜中の11:55発AF293便に乗ると無駄がない。約12時間のフライトのあと、ド・ゴール空港には現地時間で翌朝4:35頃に到着する。これで7時間前後若返ったことになる。

ここ何年かは、フランスに来てもパリは素通りすることが多い。

通関後、まだ真っ暗な早朝のド・ゴール空港国内線ターミナルまでの、遠く暗い通路をひたすら歩くと、さらにバスに乗り換えてやっとビアリッツ行きの搭乗口に到着する。国内線の料金としては最も高い部類の路線だが、いかにもローカル線っぽい佇まいだ。久しぶりに外付けの階段タラップを登って機内に入った。よく見ると機体も古い。1時間半ほどのフライト後、午前11時前に、8月のG7サミットのために改装されたばかりのビアリッツBIQ空港にやっと到着した。

ビアリッツの空港では、エールフランスに勤務する、甥っ子のフィアンセのはからいで、迎えに来てくれた娘CARINE(佳鈴)が、普通は入構禁止のバゲージクレームエリアまで入ることができ、大量の荷物引取を手伝ってもらえた。また、ありがたいことに、外では地元の古い友人もSUVジープで出迎えに来てくれていた。

大量の荷物を2台の車に詰め込むとそのまま自宅へ向かう。空港から15分ぐらいで着く距離だ。

ここでは、空港や大型ショッピングモール、病院や郵便局にいたるまでが車で20分以内にすべて揃っている。生活必需品はほぼ徒歩圏内で調達できるのだ。

娘のCARINEたち一家は、我々の到着2日後に、歩いて2分ほどの賃貸マンションにバタバタと引っ越した。彼らが長らく暮らしていた我々の自宅には、積み残しの荷物が、まだあちこちに残ったままだ。

兎にも角にも、こうして、日本的に言えば3LDKマンションでの新生活が、始まることになった。

 

ビアリッツ(Biarritz)

大西洋側のスペイン国境に近いこの街は、2019年8月にG7サミットが開催されて結構有名になったが、地中海側のリゾート地、ニースやカンヌと比べると日本では馴染みの薄いリゾート地かもしれない。まあフランスでも名前は知っていても、一般には訪れる機会の少ない土地柄ではある。

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国境を挟んでスペインとフランスにまたがり、独特の文化のあるバスク地方(Pays Basque)のフランス側中心都市でもある。

19世紀、ナポレオン三世のお妃ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo)がここに別荘を建ててから、一躍ヨーロッパ中の王侯貴族の避暑地として脚光を浴びるようになった。別荘は現在、豪華ホテル「オテル・デュ・パレ(Hôtel du Palais)」として残っている。G7の会場となったホテルだ。

1915年以来ココ・シャネルがこよなく愛した場所としても有名で、シャネルの香水にはPARIS-BIARRITZ というブランドまである。

ビアリッツは、BAB(Biarritz Anglet Bayonne)と称される、それぞれ独立した3つの市が連合した街を代表する呼称でもある。3つの街が完全に一つにつながっていて、境目はよくわからない。3市あわせた人口が約10万人ちょっと。ただ、それぞれの街にも特徴があって、ビアリッツ(Biarritz)はリゾートの中心として、高級ホテルやカジノ、ブティックなどが立ち並ぶ。アングレット(Anglet)は別荘の多い静かな住宅街で、近年海辺の観光開発も進んでいる。サーフィンのメッカでもあり、ゴルフ場も多数点在する。

バイヨン(Bayonne)は歴史的には最も古く、美しい街並みを誇る下町的賑わいのある街だ。歴史的カテドラルや公的機関などもここに集積している。フランスチョコレート発祥の地でもある。

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私達の住まいもビアリッツと言いながら、正確にはアングレットにあって4.5kmに渡って連なる美しい砂浜まで、歩いて10分ほどのところだ。

光都市として、街並みの景観維持のため花壇の手入れや海岸、道路の清掃、メンテナンスにもかなりの予算をあてている。窓際に洗濯物を干すことはできないし、ベランダの日除けテントは指定の数種類の中からしか選べない。外壁のペイントも指定色から選ぶことになる。おかげで統一感のある美しい街並みが維持されているのだ。私達の暮らす集合住宅は絵葉書にも載っている。

もともとここにはNADIAの実家De Fels 家の別荘があって、生まれたときから、夏はここで過ごすのが恒例だった。別荘にはNADIAの亡兄の一人息子があとを継いでフィアンセと住んでいる。

我々の住まいのマンションの方は、25年ほど前に当時パリで一人暮らしだったNADIAの父親が体調を崩し、晩年を過ごすために購入したものだった。老後への配慮のおかげで、歩いて行ける範囲に、銀行、郵便局から、医者に薬局、コンビニ、パン屋も2軒揃っているという超便利な場所だ。残念ながら一度も入居することなく病院で亡くなってしまった。

しばらく、住む者もなく、たまの夏休みにパリから学生時代の太輔や佳鈴がやってきては利用する程度だった。そこにこの地で恋に落ちた佳鈴がパートナーと一緒に住み始めたという歴史がある。100㎡ほどの、あちこちに老朽化が目立つ住まいだ。

 

生活基盤整備

到着して最初の仕事は、長期滞在のための生活基盤の整備である。我々に必要な主な生活基盤は、大きく3つある。

1つは、今回の移住の最大の目的でもあるNADIAの病気治療体制の確立であり、もう1つは私の長期滞在に伴う各種の法的手続きや社会保険制度への加入など。そして3つ目が、車やスマホの調達と購入後25年になるマンションの老朽化改善などだ。

 

病気

NADIAは、2010年春、富士山の別荘に2人で滞在中、突然、冠攣縮性狭心症で倒れ、救急車で御殿場の外科病院に搬送された。いつ発作が再発するかわからない厄介な病気だ。ずっと薬を飲み続けなければならない。

その後2011年にパーキンソン症候群と診断され、同時にラクナ梗塞に本態性振戦を併発していることが判明した。更にその数年後には右脇のリンパ腺に異常が見つかり、精密検査の結果、乳がんと診断された。それからおよそ3年数ヶ月、3週間おき51回に渡る壮絶な点滴治療の結果、幸い2019年4月に担当医から乳がん寛解が告げられた。しかし、パーキンソンの方は症候群から正式にパーキンソン病へと格上げされてしまったのである。

まさに病気のデパート状態になり、病院通いの頻度と投薬量、そして医療費の負担は尋常ではないものになってしまった。

移住はこの状態を打開するためでもある。医療費の負担は圧倒的にフランスのほうが低いのである。

 

妻NADIA

病気になって気がついてみれば、結婚以来日本での生活は40数年になっていた。NADIAは右も左もわからない、いわば完全アウエイの中で、この間必死に日本の生活文化への適応に努め、2人の子育てにも奮闘してくれた。

そもそも、我々が日本へ来たのは新婚旅行だった。パリで私が従事していた日本建築プロジェクトに必要な資材調達の調査も兼ねていたのだ。

1973年10 月10日、パリ16 区の区役所で婚姻のサインをし、自宅でパーティをしたあと、慌ただしくロンドンへ飛んだ。10月に入るとロンドンの気温は一気に下る。ハイドパークの入り口そば、マーブルアーチのホテルに滞在し、翌日には近くの若者向けのショップで、ロンドンファッションの真っ白なムトンのロングコートを買ってモスクワ経由の飛行機に乗り込んだ。札幌で披露宴を予定していたので、ウエディングドレスも手荷物として抱えていた。

1971年にいわゆるニクソンショックがあって以来、世界中が変動相場制移行で戸惑っていたところに第一次オイルショックに見舞われたのが、ちょうど1973年10月だった。私の雇い主はパリ在住(世界中に何か所も家をもってはいた)のアメリカ人ビリオネアだった。オイルショックによる変動相場の混乱は激しく、いかにビリオネアとはいえ、日本で資材や人を調達し、パリで日本の住宅を建て込むというプロジェクトは休止せざるを得なくなったのである。

パリでの日本住宅プロジェクトは、当時のELLEマガジン(1973年1月8日号)にも掲載された。

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日本に着いてしばらくするとフランスには戻らなくてもいいという通知がきたのだ。

当時の私は何の保証も契約書もない学生ビザの身分でしかなかったから、電話一本で突然解雇されたのだ。つまり、新婚早々私は無職になり、日本で何とか仕事を探さざるを得なくなったのである。

フランスにいた時代は、食住付で収入も割といい方だった。オイルショック後の日本で同じような条件の仕事など望むべくもなく、確か当時の大卒初任給が4〜5万円の時代だったから、手取り月給10万円の仕事を見つけるのが精一杯だった。相場からみればそう悪い方でもなかったが、家賃を払いながらこの金額で東京での2人暮らしは、特にNADIAにとっては大変なことだった。

NADIAの実家de Fels 家のルーツはスウェーデンにある。ナポレオン時代にスウェーデン王国の領事としてマルセイユに駐在していた。その後フランスに帰化し、代々「Comte de Fels」の家名を継ぐ、パリ16区の名門育ちなのである。父親は映画のプロデューサー。仕事柄1960年代始めからアメリカ、アフリカ、東南アジア等を飛び歩いていた。何度か日本を訪れてもいる。母親はタイ語科の大学教授だった。映画撮影でタイまで行くことが決まった夫に付いて行きたくてタイ語を学び始め、面白くなって続けているうちに博士号を取るまでになってしまったのだ。

両親とは、フランス、タイ、そして日本でも楽しい時間を一緒に過ごした思い出はたくさんあるが、ふたりともすでに鬼籍に入って久しい。

 

時代

NADIAがまだ大学生だった1973年、前年にニューヨークからふらりとパリにやってきた私と知り合い、出会って半年後にはパリで結婚。新婚旅行先の日本で無職になり、気がついたら東京自由が丘の粗末な2階建てのアパートで生活を始めることになっていた。

あるツテで、福生の米軍将校宿舎(アメリカンハウス)の放出家具を格安で購入するまでは、ベッドも冷蔵庫も洗濯機も何もなかった。当時基地のそばには、家具を残したまま帰国した軍人家族の家具を倉庫で管理していた名物オヤジがいて、その場で交渉すると格安で売ってくれたのだ。ハウスには、著名な写真家や彫刻家なんかも住んでいて、ちょっとアナーキーな不思議な雰囲気のところでもあった。

1DKの狭いアパートでは、洗濯機は玄関脇の外に置かなければならない構造だった。当時の東京としては、それでも自由が丘はまだ高級住宅街の一角にあったし、そんなところでも、同じアパートにはJALの国際線スッチーなども住んでいた。1970 年代初めごろの東京の住宅事情はそんな程度だったのである。

ただ、パリ16区の超高級住宅育ちの彼女にとっては、これほどの生活環境の落差は想像を絶するものだった。お互いに若かったとはいえ、思い返すと信じ難い思いに駆られる。

私の方は、札幌の一介の国鉄マンの息子で、北大獣医学部在学中に横浜からソ連の船で出国、広大なシベリアを超えてヨーロッパを放浪した後、ニューヨークに渡り、後に拙著「漂流画家 佐々木耕成85歳」の主人公、佐々木耕成氏のアトリエに転がり込んで、アーティストともヒッピーともつかぬ生活をしていた。あの9.11で崩壊したワールドトレードセンタービルが建築途上のころである。

ひょんな偶然が重なってパリ在住のアメリカ人ビリオネアに招かれて、パリ5区学生街の真ん中に日本の数寄屋造りの住宅を造るプロジェクトのマネジメントを任されることになったのだ。日本は70年安保闘争、ニューヨークはベトナム反戦運動、そしてパリでもあの5月革命がそろそろ末期を迎えていた。ただそれぞれの余韻がまだ色濃く残ってもいた。三島由紀夫の自決事件はニューヨークでラジオで聞いたし、浅間山荘事件はパリでTVで見た。パリでは、哲学者ジャン・P・サルトルが学生デモの先頭に立って、武装警官と対峙する現場に遭遇することがあった頃だ。私は室内でも催涙ガスが目に染みるカルチェ・ラタンの一角に住んでいたのである。

パリでの彼女との邂逅とその後の展開は、世界中の若者がある種の高揚感にかられていた時代、世界中でこの先に何かが起きるかもしれないと思われた時代の末期、歴史の波間で多くの若者が激しく揺れ動いた末の、ポッカリと穴の空いたような、あの時代ならではの出来事だったのかもしれない。

確かに、私達は2人とも将来を見通して計画的に生きるという発想が全く無かった。「来年の今頃はどこで何をしているかなぁ」が、つい最近までのよくある会話でもあった。今がなにかのための単なる準備の時間という概念を持つことができなかったのだ。

目の前に現れた現実に対応するだけに精一杯だったが、一方で、何をしていてもどこか非現実的な、遠くの出来事のようにも感じていた。なかなか説明が難しいのだが、ともかく目の前に現れる具体的な課題を、一つひとつ、がむしゃらに解決していく生活が続いたのである。

私は「Looking back is not my Life. 」と言い放ち、過去を振り返ることのない40数年間でもあった。

今、改めて振り返ってみて、私のコンサルタントとしての数々の大きな仕事や武蔵野美術大学での講師業も、様々な偶然の為せる技で、なろうとしてなったわけではない。何しろ私の日本での学歴は北大獣医学部中退である。何事もただまっすぐ集中していたら、結果的にそうなっていたというだけのことなのである。

NADIAの方も、たまたま現地採用されたフランス大使館で稀有な仕事に恵まれたり、昭和天皇のファーストレデイ役としてフランス大使館を訪れた美智子当時皇太子妃殿下とミッテラン大統領との間の通訳の役回りも、全ては突然降ってわいてきた偶然の仕業であって、波間に身を委ねる生き様の結果の一つに過ぎないのである。

 

移住の決意

偶然に身を委ねる生き方に慣れていたとはいえ、NADIAが病気のデパートと化してからは、さすがの私も初めて今後をどう過ごすかを考えるようになった。

40数年間、日本での明日をもしれぬ偶発生活を耐え抜いてきた彼女に、生まれた国フランスでQuality Of Lifeを存分に堪能してもらいたいと、強く思うようになった。今度は私のほうがアウェイに踏み入って、彼女を支える時かもしれないと考え始めたのだ。私自身、新天地での大きな環境変化はあまり苦にはならない。たいしてフランス語もできないが、困るのは相手の方だろうと開き直ってもいた。

とはいえ、偶然に身を任せる生活はそう簡単に変わるものではなく、面白そうな仕事の話があると、ホイホイと引き受けたりし続け、具体的な準備はなかなか進まなかった。

結局2014〜5年ごろ、私が70歳を迎える少し前から、いよいよフランス移住を本気で考え始めることになった。日本での私の仕事の整理や生活全体のスリム化など、様々な準備を開始した。2017年春には、学科創設以来18年に渡って講師を努めてきた武蔵野美術大学芸術文化学科の定年退官を迎え、本格的な準備にも拍車がかかった。

渋谷区南平台のマンションから家財道具を大幅に処分し、フランスで必要なものを引っ越し荷物として送り出すと、住まいも富士山麓の別荘に移した。2017年6月からしばらくフランスビアリッツの自宅に滞在して、日本からの荷物を受取ると、8月には帰国して、本格的に会社や仕事の整理に取り掛かった。広島県立大学MBAコースの講師のお誘いなどもお断りすることになった。富士山麓から広島までの通勤は事実上無理である。富士山麓別荘への転居は不退転の決意を後押ししてくれる効果もあったのだ。

そして、それから2年後の2019年10月頭、やっと前述の移住を迎えることになったのである。