国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその3

003

配偶者ビザ

私のフランス滞在ビザの申請手続きは、出発予定の3ヶ月ほど前、2019年6月から開始した。手続きの開始は入国予定日の3ヶ月前から可能となっている。

まずは、在日フランス大使館のWEBページから、窓口申請の予約申し込みをすることから始める。申請は日本語でもできる。ただし、電話等での問い合わせは一切できないとある。フランスの公共機関の事務手続きは一気にIT化、いわゆるデジタルトランスフォーメーションが進んでいて、今や日本のそれをはるかにしのいでいる。

とはいえ、申請書をダウンロードして必要事項を書き込み、掲載リストに従って、申請に必要な書類を一式そろえて、予約指定日時に、麻布にあるフランス大使館玄関横のビザ申請窓口に出向かなければならない。

私の場合、予約は7月29日(月)11:30、暑いさなかのアポである。

早朝に車で別荘を後にし、御殿場駅に隣接する駐車場に車を入れると、新宿着10:27の特急電車に乗り、新宿から地下鉄を乗り継いで広尾駅まで行く。そこから大使館までは10分ほどの歩きだ。朝8時過ぎには富士山麓を出発したから、全行程はかなりなものになる。

炎天下、外でしばらく並んで待たされた後、順番に狭いセキュリティーチェックゲートに招き入れられる。狭いせいか、さほど威圧感はないが、金属探知ゲートをくぐって中に入ると、正面に透明防護板でシールドされた個別窓口がずらりと並んでいる。見たところ、待合室の人種はかなり多様だ。名前を呼ばれて窓口に行くと、フランス人男性職員がにこやかに応対してくれる。日本語もうまい。一通り添付書類をチェックされた後、実際のフランス入国予定などいくつかの質問に答え、窓口下に備えてあるスキャナーで、両手指すべての指紋をスキャンされ、その場で写真も撮られる。配偶者ビザ申請者には手数料はかからない。日本のパスポートはそのまま預け、後日ビザシールを添付して自宅まで郵送してもらうことになる。

翌日自宅に電話が入り、申請資料のスキャンデータの一部が不鮮明なので再度解像度の高いPDF版を送ってほしいとの要請があって、すぐに対応することになった。それでも申請から1週間ほどで1年間有効のビザシールが貼られたパスポートが無事郵送されてきた。フランスでの就労も可能だ。これで、長期ビザでの入国ができる。ただしこれは長期滞在認定手続きのほんのスタートにすぎないのである。

 

滞在許可証

入国後、3ヶ月以上滞在する予定の者は、ビザとは別に滞在許可証を取得しなければならない。滞在許可証取得までには、その後も様々な必要手続きが待っているのだ。

まずは、日本で言う収入印紙代にあたる€250(約30,000円)を払い込まなければならない。手続きは早めに済ませたいので、私は近所のタバコショップで入国1週間後の10月8日に払い込んだ。領収証は、提示を求められることがあるので、しっかりととって置かなければならない。私はパスポートのビザシールの表示されたページに挟んでおくことにした。

ちなみにフランスのタバコショップは日本のコンビニ的な機能も持っていて、公共料金の支払いや、郵便や宅配便の受け取りサービスもやってくれる。

 

年が開けてしばらくすると、1月16日付けでOFFI(フランス移民局)から私宛の召喚状が送られてきた。

2020年2月4日にボルドー(Bordeaux)の移民局への出頭要請である。

ボルドー(Bordeaux)は私達の居住地域をカバーするヌーベル・アキテーヌ地域圏の首府にあたる。自宅から車で北に2〜3時間ほど行ったところに位置する、人口25~6万人の都市である。街の中央を流れるジロンド河に造られた港から大量のボルドーワインを積んだ船が河を下って大西洋に出ると、世界中に高価なワインを売り捌き巨万の富をこの街にもたらした。その名残の豪華な建物がここかしこに残っている。

f:id:takodajima:20200915185602j:plain

友人宅のマンション入り口 螺旋階段を上がったところにエレベーターがある 

住居部分の部屋の天井高は5mある

また、多くの大学や研究所を擁する一大学園都市でもある。人口に占める学生数はフランス随一だという。世界中から学生が集まる若者の街でもあるのだ。

2月4日は、午前中に専用診療施設でレントゲン検査、午後には移民局の施設で、フランス語の能力検定試験と面接、さらにメディカルチェックを実施するとある。フランス語の初歩検定をパスできなかった者には、改めてレベルによって100時間、300時間等、何コースかあるフランス語の履修義務が科せられる。ただし全て国費だ。

難民の大量流入やテロ事件などが繰り返されるにつれて、フランスの移民政策は年々厳しくなり、改正に改正を繰り返していて、少し前の経験者の話は全く役に立たない。ただ、フランスに3ヶ月以上滞在しようとする外国人は、移民とみなされ、フランスで暮らすのに最低限必要なフランス語とフランス文化や法律の知識、健康管理を徹底するという基本姿勢は伝統的に変わらない。どんな外国人であろうと、フランスのアイデンティティの根幹を守りさえすれば、フランス国民と同等の制度的恩恵も受けられるという理念がある。

移民という言葉に違和感もあって、大きなお世話だと思う気持ちもないわけではないが、ここは、アウェイの文化圏。自ら望んで乗り込んできた以上、素直に従うしかない。

ボルドーには、NADIAの少女時代からの親友の一人も住んでいる。

ここは友人宅訪問も兼ね、2泊ほどの時間的余裕を持って前日から訪ねて見ることにした。出頭先や、友人宅からも徒歩圏内の都心にホテルを取り、前日の2月3日午後には車で現地入りし、訪問先を事前確認することも怠らなかった。

4日は、10:15に市内のレントゲンセンターへの出頭が指定されている。10時ごろセンターに入り、受付で召喚状とパスポートを提示、待合室で待機する。待合室には多様な国籍の人々がすでに待っている。見るからに付添の人間と何語かわからない言語で話している何人かを除くと、ほとんどがスマホに目を落としている。

しばらくして、白衣のインド人風看護士に呼ばれて、レントゲン室に入る。どこにでもありそうなごく普通のレントゲン撮影機材が、殺風景な部屋の真ん中にデンと鎮座している。上半身を機材に合わせて、ごく普通に息を止め、あっけなく撮影が終わる。極めて事務的な流れ作業のような手順が進んで、しばらく待合室で待っていると、これも極めて事務的に撮影データと所見の記された資料の入った封筒を渡される。所要時間30分ほどのあっけない作業であった。

次のアポイントは、午後1:30である。場所も昨日のうちに調べてあって、歩いて5〜6分しか離れていない。NADIAと2人で近辺をぶらぶら散歩することにした。昼食には少し早いし、しっかりランチを取るには1:30 からの試験を控えて落ち着かない。台所用品などの店を見つけては、ウインドウショッピングしながら時間をつぶす。昨日ホテルのそばの凸凹な歩道でNADIAが躓いて転倒したこともあって、無理はしたくない。それにしてもフランスの道路は車道も歩道も凸凹で、道幅も意味なく広がったり、狭まったり歩きにくいことこの上ない。足の不自由な人間には最悪だ。

移民局のオフイスからすぐのところに、セルフサービスのサンドウイッチショップを見つけ、そこで早めに簡単なランチを済ますことにして店内に入った。その代わり、ディナーは少しいい店に出かけることにしたのだ。

1時を少し過ぎたころにNADIAと別れ、OFFI(移民局)の事務所に向かった。1:30まではドアもしっかりと閉じているようで、道路にはすでに人の列ができていた。

アラブ系とアフリカ系の家族連れが多いようだ。白人系やアジア系は見当たらない。

1:30きっかりに担当者らしき人が現れて、一人ひとり召喚状をチェックすると、順番に中に案内してくれる。当事者以外は入室禁止だ。不安げに入り口で見送る家族が結構いる。入り口を入るとすぐにセキュリティチェックエリアがある。空港のチェックと同じ要領で探知機をくぐって手荷物を受け取ると、そこは待合いスペースになっている。

最初はフランス語の能力検定試験だ。何をどう検定されるのか予備知識はゼロだ。

学校の教室風な試験ルームに案内されると、入り口で一人ひとり身分チェックを兼ねた質問をされる。乳母車に赤ん坊を乗せて一緒に出席する若い母親もいる。私は英語で対応させてもらったが、今日は英語を必要とする人がほとんどいないので、試験のときには英語の通訳はないという。通訳はアラブ語だけだ。私だけが極端に年齢が高いせいか、試験官から、以前にこういうところに来たことはあるか?と聞かれた。あると答えたら、いつだ?と問われたので50年ぐらい前かなあと答えると、笑いながらその時代にはこういった施設は存在していなかったと言われた。確かに記憶はない。いい加減だ。

ただ、半世紀ほど前、学生ビザを取得してパリ大学ソルボンヌヌーベルという教育学部のフランス語コースで学んだ事はある。フランス語を外国人に教える教師を養成する学科で、学生から始めて真面目に資格をとって進級すれば、教える側になって、各国にあるフランス語学校で教えることができるコースだった。学生はいろいろで、上海の中国共産党から派遣された学生とか、ソ連の都市計画設計家やトルコの弁護士など、それなりの社会人も混じっていた。教師は若いベトナム系の独身女性で、成績評価が甘々だったのをいいことに、一緒に海水浴に行ったり、私の住まい(ビリオネアの住居だが)にあった音楽ルームに学生を集めてミニコンサートを開いたりと、真面目に勉強した記憶はない。友人のフランス人女子学生に家庭教師になってもらって自宅に通ったりもしたが、いつも酒を飲みながら楽しく過ごすのが常だったので、正直フランス語は全く身につかなかった。それでも甘々の教師のおかげで、コース合格終了のディプロマはもらえたのだが、すぐに結婚し、東京に渡ってほぼ半世紀。片言の挨拶とレストランのメニュー指定程度の語学力はその後も全く進化がないのだ。

テストは、A4 5〜6枚の紙を渡され、机の上に裏返しに置いたまま、事前に内容や注意事項の説明がある。説明はフランス語でアラブ語の通訳付きだ。まあ説明内容はよくわからなかったが、ごく常識的なことに違いがないだろう。

テストはページをめくるごとに難しくなる構成だ。最初は答えも選択式で、フランス語がわからなくてもほぼ答えの見当がつく簡単な内容だ。少々わかりにくい設問でも、回答の選択パターンを推理すればほぼ正解の推測はつく。このあたりから語学の試験を受けている感じがしなくなる。一種の推理ゲームだ。

次はパリのどこどこで用事があって、地下鉄を乗り継いで現地まで到達しなければならないといった設定の文章と地下鉄の路線図が記されている設問だ。目的地に到達するまでの乗り換え駅名と、目的の駅名を特定せよという。パリでしばらく生活した経験のある人間にとってはなんとも簡単な質問だ。質問内容の理解度を試しているのだろうが、質問の全体像さえつかめれば回答の推測はつく。これもあっという間にクリアだ。

最終問題は、アパルトマンの向かいに住む人を、初めて食事に招待するための招待状を書けというものだった。私はフランス語を読む分には簡単な文章であれば、少しはわかるが、書くとなるとお手上げである。発音とスペルがまるで一致しない単語なんか綴れっこない。

そこで、2〜3ページ前の設問を利用できることに気がついた。何月何日何時にどこどこの警察署に来てください、という通知書をもとに問題が設定されているものだ。日付や曜日のスペルや語順はそこから拝借し、呼び出しの構文は招待状とは違うが、意味ぐらいは通じるだろうと、なんとなく書き上げた。ボロボロだが零点にはならないだろうと踏んだ。

時間がきて、解答用紙が回収され、しばらく休憩のあと、個別面接が行われる。

私の担当は若いにこやかな男性だった。もっとも、私から見れば現役の就労者はどこでもみんな若者である。

彼はすべて英語で対応してくれた。私がフランス人と結婚してすでに46年もたっている高齢の年金生活者であり、フランスの国籍がほしいわけでも仕事がしたいわけでもないことから、質問も冗談交じりのほぼ世間話のような面談だった。

しかも、先に受けたフランス語の試験が思いの外高得点だった。50点満点中37点だったという。100点満点に換算すると74点だ。なんと初歩のフランス語能力(A1)は合格。フランス語研修義務も免除されるという。カンと要領でクイズに合格したような気分だ。

最後に、フランス共和国の法律を遵守する旨の誓約書にサインし(A1レベルのフランス語能力を有している旨の証明も記されている)、そのコピーを受け取って終了した。

気を良くして、次のメディカルチェックも調子にのって英語でジョークを連発。相手に通じていたかどうかは知らないが、とにかく上機嫌で全行程を終えた。

私に課された次の課題は、伝染病の混合ワクチンの接種(日本にはない制度だが、フランス国民には接種義務がある)と、県都ポー(PAU)での市民講座(履修義務がある)4日間の履修だ。3月19日と3月26日の2日分がすでに指定されていた。朝9時から昼食(オファーされる)を挟んで、夕方5:00までびっしりカリキュラムが組まれているという。

待合室に戻ると、なんとNADIAがそこで待っていた。当事者以外家族の入室は禁止のはずだが、もう終わりの頃だし、警備のおじさんと仲良くなって入れてもらえたらしい。足が悪そうなのも効いたようだ。周りは意外と深刻な顔をした人が多い中、笑顔で現れた私が、談笑中のNADIAに日本語で明るく話しかけている姿は、傍からみると場違いに浮いていたかもしれない。

ボルドーでは翌日、2016年にオープンしたばかりの、奇抜な外観で話題のワイン博物館(La Cité du Vin)を訪れたあと、帰途についた。

f:id:takodajima:20200915185308j:plain

ボルドーのワイン博物館

車での気まま旅でもあり、移民局でのテスト結果に気を良くしたこともあって、途中、海辺のリゾート地、アルカション(Arcachon)に立ち寄ることにした。いいホテルが空いていたら一泊しようということにしたのだ。シーズンオフでもあり、混んではいないはずだ。うまい魚介料理が期待できる。

幸い、海沿いの良いホテルに飛び込みで泊まることができた。ビアリッツ界隈の海とは違って深い入り江の遠浅の海は波もなく、湖のように穏やかな海岸だ。翌日にはすぐ近くの有名なピラ砂丘(Dune du Pilat)に登ることもできた。

しかし、軽い気持ちで砂丘の急坂を登ってみたのだが、この歳になってこれほど体力的にしんどい思いをするとは思わなかった。あまりにきつくて写真も撮り忘れてしまった。頂上での動画はあるが、疲れてつい長回しにしたのでデータ量が重すぎる。投稿はやめた。2月初旬のFBにはのっけた覚えがある。とにかく年寄りにはおすすめ出来ない。私も二度と行くことはないだろう。

しかし、このときはまだこれほどのコロナ禍に見舞われるとは露ほども感じられなかった時期だった。これを最後に、その後しばらくはどこにも外出できなくなってしまったのである。

当然、ポーで指定された3月中の市民講座にも出席は不能だ。ただ、何の連絡も来ないし、電話でもメールでも通信不能時期が続いた。