国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行

団塊世代ドロップアウト派に属する私は、1973年にパリでフランス人女性と結婚し、新婚旅行で日本に来たまま2019年で46年が過ぎてしまった。脱落人生とはいえ、東京に半世紀近く住んでしまえば、それなりの生活基盤やネットワークも出来上がる。72歳と68歳になった老夫婦は、身体中に多くの不具合を抱えてもいる。にも関わらず、あえてこの歳になってフランス南西部、バスク地方にあるリゾート地、ビアリッツBiarritz)に移り住むことにした。そこで晩年を過ごす心づもりだ。

この紀行は、2人の2019年10月からの危なっかしい試みの顛末を綴るものである。

しかも現地に着いた矢先のコロナウイルス禍。何やらハプニング続きの大混乱に見舞われたが、ドロップアウト派にはハプニングは付きものでもある。その時々の、素の思いを記してみたいと思っている。ただこの歳まで年齢を重ねると、小さな出来事一つにも、過去の様々な歴史が、入り組んで深く結びついていることもよくわかる。ときに時間を遡りながら、経緯を詳述していくつもりだ。

読者諸氏が疑問に思うことやご質問等があれば、ぜひ問いかけていただきたい。特定の個人に迷惑が及ばない限りは、詳しくお答えしていこうと考えている次第だ。 

f:id:takodajima:20200915050140j:plain

 

 

 

 

001(2020.9.14)

日本出発

2019年10月1日午後、妻Nadiaと二人で富士山麓から御殿場駅前の日産レンタカーまで出向き、予約してあったマーチを受け取ると、愛車レガシーとマーチそれぞれに分乗して別荘まで引き返した。いよいよ本格移住の開始である。

別荘に戻ると、最後の点検と戸締まりを確認し、準備しておいたスーツケース2個と手荷物を、後部座席を倒した小さなマーチの後ろにぎゅうぎゅう詰めにして、羽田に向かって出発した。

レガシーは譲渡先がピックアップに来るまでここに置いておく手はずだ。

1〜2ヶ月ほど前からこの日の出発に向けては、細かい行動チェックリストを作り、それに沿って、一つ一つ順調にこなしてきた。

私のフランス長期VISAの取得、Nadiaの再入国許可証の取得、国際運転免許証の取得、郵便物の転送手続きやNHKの解約にBS有料チャンネルの解約、別荘管理会社との建物内点検・メンテナンスサービスの契約。車の譲渡手続きに伴うJAFや保険の解約と英語版保険等級証明書の発行手続き等々、大小、山のような手続きや作業を滞りなく済ませてきた。細かいものでは、各種の鍵の保管場所記録や、調味料の保管場所からDIY道具のありかなど、スマホの忘備録写真は100枚を超える。

最後に1年ほどは見納めになる秀麗なる富士山をしばし仰ぎ見ると、大して感慨もないまま次の細かなメニューを淡々とチェックしながら富士山南麓の別荘をあとにした。

f:id:takodajima:20200915050534j:plain

裾野インターから東名高速に乗り、首都高速横浜線経由で羽田空港近くのレンタカー店舗まで約2時間弱。マーチを返却し、送迎バスに乗り込んで国際線ターミナルまで送ってもらう。

途中バスの運転手宛に電話が入り、ETCカードを抜き忘れて来てしまったことが発覚。

チェックリストにはしっかり書き込んであったのだが、すっかり忘れてしまっていた。結局、後日東京の長男太輔の住所に郵送してもらうことにして、スマホ解約のために空港ドコモショップへ直行した。

スマホの解約手続き自体はさほど面倒ではないが、解約日付が10月1日。1日だけ10 月に食い込んでいるために、丸まる1ヶ月分が契約期間としてチャージされるルールなのだそうだ。それだけで1万円が追加引き落としされることになってしまった。それにしても日本の携帯キャリアの料金は高すぎる。

1992年、NTTドコモブランドを世に送り出す仕事に従事した身としては、健全な競争市場を作って料金を下げようという大目標が、思惑どおりには進まなかったことに悔いを残したまま日本を後にすることになってしまった。

 

AMEXの荷物別送サービスを利用して、事前に空港サービスカウンター宛に送っておいた大型スーツケース2個を受け取ると、エールフランスのチェックインカウンターへ。

手続きが終わると、NADIAの体調を気遣って、わざわざ空港まで見送りに来てくれた長年の友人MIMIさんに誘われて、回転寿司屋で軽い夕食をともにした。MIMIさんは、NADIAとフランス大使館勤務時代からの友人だが、ご主人のパリ勤務に同行してフランス在住歴も長いフランス通だ。磊落でいつも周囲を明るくしてくれる気のおけない友人だ。

MIMIさんにも別れを告げ、いよいよ出国ゲートへ。免税店を覗いてみたら、5万円以上もするサントリーウイスキー山崎が1本だけ売れ残っていた。これでも安い方なのだという。まあ、お土産は100円ショップ系を十分に詰め込んである。何も買わずにエールフランスのラウンジまで行って、白ワインとツマミで搭乗時間まで一休み。普通の旅行や出張と違って、ここまでで結構疲れてしまった。

羽田発エールフランスのパリ直行便で、パリ、ド・ゴール空港まで飛び、国内線に乗り換えてビアリッツまで最短時間でたどり着くには、羽田を夜中の11:55発AF293便に乗ると無駄がない。約12時間のフライトのあと、ド・ゴール空港には現地時間で翌朝4:35頃に到着する。これで7時間前後若返ったことになる。

ここ何年かは、フランスに来てもパリは素通りすることが多い。

通関後、まだ真っ暗な早朝のド・ゴール空港国内線ターミナルまでの、遠く暗い通路をひたすら歩くと、さらにバスに乗り換えてやっとビアリッツ行きの搭乗口に到着する。国内線の料金としては最も高い部類の路線だが、いかにもローカル線っぽい佇まいだ。久しぶりに外付けの階段タラップを登って機内に入った。よく見ると機体も古い。1時間半ほどのフライト後、午前11時前に、8月のG7サミットのために改装されたばかりのビアリッツBIQ空港にやっと到着した。

ビアリッツの空港では、エールフランスに勤務する、甥っ子のフィアンセのはからいで、迎えに来てくれた娘CARINE(佳鈴)が、普通は入構禁止のバゲージクレームエリアまで入ることができ、大量の荷物引取を手伝ってもらえた。また、ありがたいことに、外では地元の古い友人もSUVジープで出迎えに来てくれていた。

大量の荷物を2台の車に詰め込むとそのまま自宅へ向かう。空港から15分ぐらいで着く距離だ。

ここでは、空港や大型ショッピングモール、病院や郵便局にいたるまでが車で20分以内にすべて揃っている。生活必需品はほぼ徒歩圏内で調達できるのだ。

娘のCARINEたち一家は、我々の到着2日後に、歩いて2分ほどの賃貸マンションにバタバタと引っ越した。彼らが長らく暮らしていた我々の自宅には、積み残しの荷物が、まだあちこちに残ったままだ。

兎にも角にも、こうして、日本的に言えば3LDKマンションでの新生活が、始まることになった。

 

ビアリッツ(Biarritz)

大西洋側のスペイン国境に近いこの街は、2019年8月にG7サミットが開催されて結構有名になったが、地中海側のリゾート地、ニースやカンヌと比べると日本では馴染みの薄いリゾート地かもしれない。まあフランスでも名前は知っていても、一般には訪れる機会の少ない土地柄ではある。

f:id:takodajima:20200915050634p:plain

国境を挟んでスペインとフランスにまたがり、独特の文化のあるバスク地方(Pays Basque)のフランス側中心都市でもある。

19世紀、ナポレオン三世のお妃ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo)がここに別荘を建ててから、一躍ヨーロッパ中の王侯貴族の避暑地として脚光を浴びるようになった。別荘は現在、豪華ホテル「オテル・デュ・パレ(Hôtel du Palais)」として残っている。G7の会場となったホテルだ。

1915年以来ココ・シャネルがこよなく愛した場所としても有名で、シャネルの香水にはPARIS-BIARRITZ というブランドまである。

ビアリッツは、BAB(Biarritz Anglet Bayonne)と称される、それぞれ独立した3つの市が連合した街を代表する呼称でもある。3つの街が完全に一つにつながっていて、境目はよくわからない。3市あわせた人口が約10万人ちょっと。ただ、それぞれの街にも特徴があって、ビアリッツ(Biarritz)はリゾートの中心として、高級ホテルやカジノ、ブティックなどが立ち並ぶ。アングレット(Anglet)は別荘の多い静かな住宅街で、近年海辺の観光開発も進んでいる。サーフィンのメッカでもあり、ゴルフ場も多数点在する。

バイヨン(Bayonne)は歴史的には最も古く、美しい街並みを誇る下町的賑わいのある街だ。歴史的カテドラルや公的機関などもここに集積している。フランスチョコレート発祥の地でもある。

f:id:takodajima:20200915050713p:plain

私達の住まいもビアリッツと言いながら、正確にはアングレットにあって4.5kmに渡って連なる美しい砂浜まで、歩いて10分ほどのところだ。

光都市として、街並みの景観維持のため花壇の手入れや海岸、道路の清掃、メンテナンスにもかなりの予算をあてている。窓際に洗濯物を干すことはできないし、ベランダの日除けテントは指定の数種類の中からしか選べない。外壁のペイントも指定色から選ぶことになる。おかげで統一感のある美しい街並みが維持されているのだ。私達の暮らす集合住宅は絵葉書にも載っている。

もともとここにはNADIAの実家De Fels 家の別荘があって、生まれたときから、夏はここで過ごすのが恒例だった。別荘にはNADIAの亡兄の一人息子があとを継いでフィアンセと住んでいる。

我々の住まいのマンションの方は、25年ほど前に当時パリで一人暮らしだったNADIAの父親が体調を崩し、晩年を過ごすために購入したものだった。老後への配慮のおかげで、歩いて行ける範囲に、銀行、郵便局から、医者に薬局、コンビニ、パン屋も2軒揃っているという超便利な場所だ。残念ながら一度も入居することなく病院で亡くなってしまった。

しばらく、住む者もなく、たまの夏休みにパリから学生時代の太輔や佳鈴がやってきては利用する程度だった。そこにこの地で恋に落ちた佳鈴がパートナーと一緒に住み始めたという歴史がある。100㎡ほどの、あちこちに老朽化が目立つ住まいだ。

 

生活基盤整備

到着して最初の仕事は、長期滞在のための生活基盤の整備である。我々に必要な主な生活基盤は、大きく3つある。

1つは、今回の移住の最大の目的でもあるNADIAの病気治療体制の確立であり、もう1つは私の長期滞在に伴う各種の法的手続きや社会保険制度への加入など。そして3つ目が、車やスマホの調達と購入後25年になるマンションの老朽化改善などだ。

 

病気

NADIAは、2010年春、富士山の別荘に2人で滞在中、突然、冠攣縮性狭心症で倒れ、救急車で御殿場の外科病院に搬送された。いつ発作が再発するかわからない厄介な病気だ。ずっと薬を飲み続けなければならない。

その後2011年にパーキンソン症候群と診断され、同時にラクナ梗塞に本態性振戦を併発していることが判明した。更にその数年後には右脇のリンパ腺に異常が見つかり、精密検査の結果、乳がんと診断された。それからおよそ3年数ヶ月、3週間おき51回に渡る壮絶な点滴治療の結果、幸い2019年4月に担当医から乳がん寛解が告げられた。しかし、パーキンソンの方は症候群から正式にパーキンソン病へと格上げされてしまったのである。

まさに病気のデパート状態になり、病院通いの頻度と投薬量、そして医療費の負担は尋常ではないものになってしまった。

移住はこの状態を打開するためでもある。医療費の負担は圧倒的にフランスのほうが低いのである。

 

妻NADIA

病気になって気がついてみれば、結婚以来日本での生活は40数年になっていた。NADIAは右も左もわからない、いわば完全アウエイの中で、この間必死に日本の生活文化への適応に努め、2人の子育てにも奮闘してくれた。

そもそも、我々が日本へ来たのは新婚旅行だった。パリで私が従事していた日本建築プロジェクトに必要な資材調達の調査も兼ねていたのだ。

1973年10 月10日、パリ16 区の区役所で婚姻のサインをし、自宅でパーティをしたあと、慌ただしくロンドンへ飛んだ。10月に入るとロンドンの気温は一気に下る。ハイドパークの入り口そば、マーブルアーチのホテルに滞在し、翌日には近くの若者向けのショップで、ロンドンファッションの真っ白なムトンのロングコートを買ってモスクワ経由の飛行機に乗り込んだ。札幌で披露宴を予定していたので、ウエディングドレスも手荷物として抱えていた。

1971年にいわゆるニクソンショックがあって以来、世界中が変動相場制移行で戸惑っていたところに第一次オイルショックに見舞われたのが、ちょうど1973年10月だった。私の雇い主はパリ在住(世界中に何か所も家をもってはいた)のアメリカ人ビリオネアだった。オイルショックによる変動相場の混乱は激しく、いかにビリオネアとはいえ、日本で資材や人を調達し、パリで日本の住宅を建て込むというプロジェクトは休止せざるを得なくなったのである。

パリでの日本住宅プロジェクトは、当時のELLEマガジン(1973年1月8日号)にも掲載された。

f:id:takodajima:20200915050957j:plainf:id:takodajima:20200915051040j:plain

 

f:id:takodajima:20200915051144j:plainf:id:takodajima:20200915051222j:plain

日本に着いてしばらくするとフランスには戻らなくてもいいという通知がきたのだ。

当時の私は何の保証も契約書もない学生ビザの身分でしかなかったから、電話一本で突然解雇されたのだ。つまり、新婚早々私は無職になり、日本で何とか仕事を探さざるを得なくなったのである。

フランスにいた時代は、食住付で収入も割といい方だった。オイルショック後の日本で同じような条件の仕事など望むべくもなく、確か当時の大卒初任給が4〜5万円の時代だったから、手取り月給10万円の仕事を見つけるのが精一杯だった。相場からみればそう悪い方でもなかったが、家賃を払いながらこの金額で東京での2人暮らしは、特にNADIAにとっては大変なことだった。

NADIAの実家de Fels 家のルーツはスウェーデンにある。ナポレオン時代にスウェーデン王国の領事としてマルセイユに駐在していた。その後フランスに帰化し、代々「Comte de Fels」の家名を継ぐ、パリ16区の名門育ちなのである。父親は映画のプロデューサー。仕事柄1960年代始めからアメリカ、アフリカ、東南アジア等を飛び歩いていた。何度か日本を訪れてもいる。母親はタイ語科の大学教授だった。映画撮影でタイまで行くことが決まった夫に付いて行きたくてタイ語を学び始め、面白くなって続けているうちに博士号を取るまでになってしまったのだ。

両親とは、フランス、タイ、そして日本でも楽しい時間を一緒に過ごした思い出はたくさんあるが、ふたりともすでに鬼籍に入って久しい。

 

時代

NADIAがまだ大学生だった1973年、前年にニューヨークからふらりとパリにやってきた私と知り合い、出会って半年後にはパリで結婚。新婚旅行先の日本で無職になり、気がついたら東京自由が丘の粗末な2階建てのアパートで生活を始めることになっていた。

あるツテで、福生の米軍将校宿舎(アメリカンハウス)の放出家具を格安で購入するまでは、ベッドも冷蔵庫も洗濯機も何もなかった。当時基地のそばには、家具を残したまま帰国した軍人家族の家具を倉庫で管理していた名物オヤジがいて、その場で交渉すると格安で売ってくれたのだ。ハウスには、著名な写真家や彫刻家なんかも住んでいて、ちょっとアナーキーな不思議な雰囲気のところでもあった。

1DKの狭いアパートでは、洗濯機は玄関脇の外に置かなければならない構造だった。当時の東京としては、それでも自由が丘はまだ高級住宅街の一角にあったし、そんなところでも、同じアパートにはJALの国際線スッチーなども住んでいた。1970 年代初めごろの東京の住宅事情はそんな程度だったのである。

ただ、パリ16区の超高級住宅育ちの彼女にとっては、これほどの生活環境の落差は想像を絶するものだった。お互いに若かったとはいえ、思い返すと信じ難い思いに駆られる。

私の方は、札幌の一介の国鉄マンの息子で、北大獣医学部在学中に横浜からソ連の船で出国、広大なシベリアを超えてヨーロッパを放浪した後、ニューヨークに渡り、後に拙著「漂流画家 佐々木耕成85歳」の主人公、佐々木耕成氏のアトリエに転がり込んで、アーティストともヒッピーともつかぬ生活をしていた。あの9.11で崩壊したワールドトレードセンタービルが建築途上のころである。

ひょんな偶然が重なってパリ在住のアメリカ人ビリオネアに招かれて、パリ5区学生街の真ん中に日本の数寄屋造りの住宅を造るプロジェクトのマネジメントを任されることになったのだ。日本は70年安保闘争、ニューヨークはベトナム反戦運動、そしてパリでもあの5月革命がそろそろ末期を迎えていた。ただそれぞれの余韻がまだ色濃く残ってもいた。三島由紀夫の自決事件はニューヨークでラジオで聞いたし、浅間山荘事件はパリでTVで見た。パリでは、哲学者ジャン・P・サルトルが学生デモの先頭に立って、武装警官と対峙する現場に遭遇することがあった頃だ。私は室内でも催涙ガスが目に染みるカルチェ・ラタンの一角に住んでいたのである。

パリでの彼女との邂逅とその後の展開は、世界中の若者がある種の高揚感にかられていた時代、世界中でこの先に何かが起きるかもしれないと思われた時代の末期、歴史の波間で多くの若者が激しく揺れ動いた末の、ポッカリと穴の空いたような、あの時代ならではの出来事だったのかもしれない。

確かに、私達は2人とも将来を見通して計画的に生きるという発想が全く無かった。「来年の今頃はどこで何をしているかなぁ」が、つい最近までのよくある会話でもあった。今がなにかのための単なる準備の時間という概念を持つことができなかったのだ。

目の前に現れた現実に対応するだけに精一杯だったが、一方で、何をしていてもどこか非現実的な、遠くの出来事のようにも感じていた。なかなか説明が難しいのだが、ともかく目の前に現れる具体的な課題を、一つひとつ、がむしゃらに解決していく生活が続いたのである。

私は「Looking back is not my Life. 」と言い放ち、過去を振り返ることのない40数年間でもあった。

今、改めて振り返ってみて、私のコンサルタントとしての数々の大きな仕事や武蔵野美術大学での講師業も、様々な偶然の為せる技で、なろうとしてなったわけではない。何しろ私の日本での学歴は北大獣医学部中退である。何事もただまっすぐ集中していたら、結果的にそうなっていたというだけのことなのである。

NADIAの方も、たまたま現地採用されたフランス大使館で稀有な仕事に恵まれたり、昭和天皇のファーストレデイ役としてフランス大使館を訪れた美智子当時皇太子妃殿下とミッテラン大統領との間の通訳の役回りも、全ては突然降ってわいてきた偶然の仕業であって、波間に身を委ねる生き様の結果の一つに過ぎないのである。

 

移住の決意

偶然に身を委ねる生き方に慣れていたとはいえ、NADIAが病気のデパートと化してからは、さすがの私も初めて今後をどう過ごすかを考えるようになった。

40数年間、日本での明日をもしれぬ偶発生活を耐え抜いてきた彼女に、生まれた国フランスでQuality Of Lifeを存分に堪能してもらいたいと、強く思うようになった。今度は私のほうがアウェイに踏み入って、彼女を支える時かもしれないと考え始めたのだ。私自身、新天地での大きな環境変化はあまり苦にはならない。たいしてフランス語もできないが、困るのは相手の方だろうと開き直ってもいた。

とはいえ、偶然に身を任せる生活はそう簡単に変わるものではなく、面白そうな仕事の話があると、ホイホイと引き受けたりし続け、具体的な準備はなかなか進まなかった。

結局2014〜5年ごろ、私が70歳を迎える少し前から、いよいよフランス移住を本気で考え始めることになった。日本での私の仕事の整理や生活全体のスリム化など、様々な準備を開始した。2017年春には、学科創設以来18年に渡って講師を努めてきた武蔵野美術大学芸術文化学科の定年退官を迎え、本格的な準備にも拍車がかかった。

渋谷区南平台のマンションから家財道具を大幅に処分し、フランスで必要なものを引っ越し荷物として送り出すと、住まいも富士山麓の別荘に移した。2017年6月からしばらくフランスビアリッツの自宅に滞在して、日本からの荷物を受取ると、8月には帰国して、本格的に会社や仕事の整理に取り掛かった。広島県立大学MBAコースの講師のお誘いなどもお断りすることになった。富士山麓から広島までの通勤は事実上無理である。富士山麓別荘への転居は不退転の決意を後押ししてくれる効果もあったのだ。

そして、それから2年後の2019年10月頭、やっと前述の移住を迎えることになったのである。