国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその23
■国名と体制
先日、英国が離脱したEUでは「英語」をいつまで公用語とするかの議論が始まったとのニュースがあった。
「英語」はフランス語では「Anglais=アングレ」だ。
「Anglais」は明らかに「Angleterre=England」から来ているから「England語」のことを指す。
フランスでも英国を「Angleterre=アングレテール」と呼ぶから「英語=English= Anglais=England語」で整合する。
しかし、フランスでも毎年熱狂するラグビーイベント「6Nations Rugby」では、「England= Angleterre」は、英国の正式名称「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland=通称UK」からいえば連合王国を構成する4つの「Nations」の1つに過ぎないことになる。
つまり、「イングランド=England= Angleterre」「ウェールズ=Wales=Galles」「スコットランド=Scotland= Ecosse」「アイルランド=Ireland= Irlande」の一員だ。
英国領アイルランドは、カトリック系住民の多い南側が、1937年に共和国として独立したから、連合王国の一員として正式には「Northern Ireland」と表現する。
それぞれが独自の言語、国旗と国歌も持っている。
英国に限らずヨーロッパの国々はどの国も近代国家が形成されるまでの長い歴史を引きずっていて、一筋縄では整理がつかない。
ちなみに6Nationsの残りの2カ国はフランスとイタリアだから、英国内の4カ国は、それぞれ形式的にはフランスやイタリアと同等のステータスを持つことになる。
また、北アイルランドを除いた島全体を表す「Great Britain」は、通称「GB」とともに統一国名として使うこともある。「Great」は日本語では「偉大な」と訳されることがあるが、実際には現フランス領の「ブルターニュ=Bretagne」を「Little Britain」と呼ぶことと対になっている、単に大きい方の島を表すだけである。先史時代からケルト系のブリタニア人が海峡を挟んで両方に住んでいた事による。
フランス・ブルターニュ地方には、未だにブルトン語を話すケルト系の独特の文化を擁する誇り高きブルトン人が住む。
ブルトン語はウエールズやスコットランドにも残るゲール語とルーツを共有するケルト系の言語で、互いの文化的絆も強い。
英国は自由主義圏先進5カ国(米・英・仏・独・日)の一員でありながら、近代国家としての統一国名が今ひとつはっきりしないという不思議な国なのである。
もしかしたら、日本でのみ通用する「英国」こそが最も分かりやすい通称かもしれない。
統一感の曖昧な英国では、最近スコットランドの独立問題が現実味を帯びだしたといわれる。
1999年に、住民のガス抜き目的で創設されたスコットランド議会がどうやら中央政府の意に反して独立派議員が3分の2に達しそうだとのニュースも飛び込んできた。
あのショーン・コネリーもスコティッシュスカートをはいて独立運動のデモの先頭に立つほどだから、国民の独立の機運はかなり根強いのだ。
スコットランドの女性宰相ニコラ・スタージョン氏はしたたかな戦略家で、周到な準備に余念がないとも聞く。EUへの加盟が可能になりそうなら独立は実現するかもしれない。ただEUにはスペインのように国内に独立機運の高いエリアを抱える国がいくつかあるので、なだれ現象を防ぐ意味でも当面は難しそうだ。しかし、スコットランドの国民投票で、もしも独立が承認されれば、経済や安全保障面でも自立化の動きはますます激しくなるに違いない。
英国の体制の延長上にあるのが、カナダとオーストラリア、ニュージーランド等だ。
それぞれ独立国ながら、実は王国で、国家元首は今でも英国のエリザベス女王なのである。
同じ体勢の国はジャマイカ他「コモンウェルス・レルム=Commonwealth realm」として旧植民地が名を連ねているのだ。
カナダやオーストラリア、ニュージーランドが実は王国だとは、案外知らない人も多いのではないだろうか。
カナダなどは、G7の一角を占める国ながら、体制的には英国由来の王国で、元首はエリザベス女王。古いフランス語を公用語とする広大なケベック地域を内部に抱え、経済体制的には米国とほぼ一体という変な国なのである。
それにしても、国名ほど不思議で面白いものはない。
自国民がいくら自国名を声高に主張しても、歴史的に一旦外国から名付けられた国名(通称名)は決して変わらない。
日本は自国名を「日本=Nippon」と定めたが、英語圏での「Japan」、フランス語圏での「Japon」は決して変わらない。いくらスポーツの国際試合で「Nippon! Chya! Chya! Chya! 」と叫んでも、だれも「Nippon」とは呼んでくれない。
大国「ドイツ」も自国名は「Deutschland」。古高ドイツ語の「diutisc = 民衆」が由来という。オランダ語「Duitsland」、ルクセンブルク語「Däitschland」など周辺国は近い発音だ。
だが、英語圏の国では「Germany」、フランス語圏では「Allemagne」だ。それぞれゲルマン民族と、その一部であったアレマン族を指す言葉を語源としている。
北の隣国デンマークやスウェーデンでは「Tyskland」という。
東西ドイツが統一されようが、近隣国からの呼び名は変わらない。
ほかにもサクソン部族を指す「Saksa」や「Sakamma」などという呼び方もあって、いくら歴史的に各国の捉え方が違うからとはいえ、同じヨーロッパなのに「ドイツ」を特定する呼び名としては、どうしてこれほど多彩なのか理解を超える。
「フィンランド」は他国からはほぼ一致して「Finland」と呼ばれるが、自国語では「Suomi=スオミ」だ。似ても似つかない。だが全く知られていないし、言ってもわからない。
一方で「フランス」や「スペイン」「イタリア」のように、自国語でも各国語でもほぼ同じ呼び名のところもたくさんあるのだから不思議としか言いようがない。
「アメリカ=America」は漢字圏の日本では「亜米利加」、中国では「美利堅」を当てている。略称は日本では「米国」、中国では「美国」となる。表意文字圏の人間にとっては、それぞれから発信されるイメージはかなり違う。
実は、ヨーロッパには、あまり馴染みのない小さな国がたくさんある。
一つひとつに、周辺大国との古い歴史的因縁があって、小さいながらも存続が許されているといってもいいかもしれない。
それぞれ調べるととても面白いのだが、きりがないので、私の住んでいる地域から比較的近くにある小国「アンドラ公国=Principat d'Andorra」について。
ここは国名というより体制が面白い。スペインとフランスの国境に位置する人口8万人ほどの小さな立憲君主国だ。国王を国家元首として戴いていて、日本も独立国として認めている。駐在大使館(パリの日本大使館内だが)も存在している。
しかし、この国は長年スペインとフランスが領有権を争って来た歴史があり、現在は両国の共同統治国である。国旗も両国の国旗を合体したものになっているのだ。
そしてフランス大統領とスペイン(カタルニア)のウルヘル司教が「共同公」として、2人の国家元首が政治と宗教の両面から統治しているのだ。
一方の司教は、スペインといっても独立の意識の高いカタルニアのカトリック最高聖職者だから、それ自体も単純ではない。国王の方は、フランス革命以前からの慣例で、革命前はフランス国王が兼務していた。そして現在も選挙で選ばれるフランス大統領が国王役で元首を努めているのだ。つまり、「フランス共和国」のマクロン大統領は同時に一国の国王でもあるのだ。
ヨーロッパから離れてしまうともっとわけが解らなくなる。
コロンブスがインドと間違ったことに起源がある「新大陸(これも恥ずかしげもなくよく名付けたものだ)」の西側のカリブ海の島々は、未だに「西インド諸島=英語: West Indies、 スペイン語: Indias Occidentales、フランス語: Antilles (Indes occidentales)、 オランダ語: West-Indië)」という。
インドからはるかに離れた島々に、間違って名付けたこともはっきりしているのに、呼び名を改正しようという気配はない。
先住民にいたっては不幸にも「Indian」と名付けられてしまった。
アメリカでは「American Indian」とか「Native American」とかの言い換えが一般化しているが、日常会話上では未だに「Indian」もよく使われる。
アメリカ人はそれなりに気を使っているが、ヨーロッパ人の会話上ではなんの遠慮もなく「Indian」という。
面白いのは日本で、違うと言われれば、さっさと変えてしまう。順応性が高いというか、こだわらないというか、文化的特徴の一つかもしれない。
例えば「中国」の呼称は戦前までは「支那」だった。つい最近まで「支那人」に「支那服」「支那蕎麦」だった。遠く始皇帝が治めた「秦」に由来する呼称で、英語の「China」、フランス語の「Chine」とも同じ語源だ。
よくわからないが、蔑称のニュアンスでもあったからなのか、「中華人民共和国」ができたとたんに、さっさと呼称を「中国」に変えた。そしてまたたくまに国民にも浸透した。
「中華人民共和国」の英語名称は中国自らが「People's Republic of China」と表現しているにも関わらず、「China=支那」の呼び名をさっさとやめてしまったのだ。
おかげで、大和朝廷より以前の「中つ国」に淵源を持つ日本の中国地方の企業名は大迷惑だ。「中国銀行」「中国放送」「中国電力」は下手すると中国資本かと間違われるかもしれない。ただ、そうはならないところが、日本文化の妙だ。たいして困っているふうにも見えない。
「ビルマ」がいつの間にか「ミャンマー」に言い変わったことにもほとんど抵抗がなかったように思える。「ああ、そうなの」って程度だ。
日本語では「インディアン」と「インド人」が同じと思っている人などいないし、「インディアン」と「インド人」でははっきりと思い浮かぶ顔つきがちがう。「チャンネル」と「チャネル」、「セミナー」と「ゼミ」と「ゼミナール」はちゃんと区別がついている。日本語は便利だ。
そもそも日本の国名には、「アメリカ”合州国”」「フランス”共和国”」「中華”人民共和国”」のような体制名がない。明治以降、新憲法制定時までは「大日本”帝国”」だった。何が「大」なのかよくわからないが「帝国=Empire」だったから「天皇」は英語では「Emperor」なのだ。今はただの「日本国」だ。今や「帝国」でもなく「王国」でもなく、もちろん「共和国」でもない。
もしかしたら「天皇=Emperor」や「皇居=Imperial Palace」を温存し、密かに「帝国=Empire」体制への復帰をじっと待っているのかもしれない。
しかし、古代中国から名前を借りた「天皇」の源意は北極星だ。天皇には北斗七星に当たる7人の守護神もついている。一方、天皇の祖先である日本の最高神は天照大神。太陽である。太陽神が北極星由来の名前を使っていることになる。伊勢神宮の奥ではこの矛盾を克服するために、太陽と北極星が密かに合体される天皇自身が取り仕切る秘密の祈祷があるという。見たわけではないので詳しくは知らない。まあ、日本もなかなかどうして、変な体制なのである。
英国の話に戻ると、英国とフランスは昔から犬猿の仲と言われている。
イギリス人は、英語を使わずどこでも平気でフランス語をまくしたてるフランス人が大嫌いだ。フランス人は、まずい食事が平気で尊大な態度を変えないイギリス人が大嫌いだ。
歴史的にお互いの悪口の応酬にも遠慮がない。
しかし、15世紀にフランスを制覇したヘンリー5世はイングランド王国の王室紋章のモットーにフランス語で「Dieu et mon droit=神と我が権利」を採用し、現在でも王室紋章のモットーとして残っている。
また、英国の最高勲章である「ガーター勲章=Order of the Garter」のモットーもフランス語で「Honi soit qui mal y pense=悪意を抱く者に災いあれ」である。
エドワード3世が舞踏会でソールズベリー伯爵夫人ジョアン(後のエドワード黒太子妃)とダンスを踊っていたとき、伯爵夫人の靴下止め(ガーター)が外れて落ちた。これは当時恥ずべき不作法とされていたので、周囲から嘲笑された。しかしエドワード3世はそれを拾い上げ「悪意を抱く者に災いあれ(Honi soit qui mal y pense)」とフランス語で言って即座に自分の左足に付けたという逸話があるのだ。事実かどうか諸説あるそうだが、大嫌いなはずのフランス語のモットーは事実残っている。
要はどの国も一筋縄では整理しきれない体制の矛盾を抱えている。
アメリカにしても、ピラミッドに目玉のついた「フリーメイソン」のシンボルをドル紙幣のデザインに使っているではないか。
共産中国の株式市場とか、1国2制度のわけの分からなさを嘲笑ってばかりもいられないのだ。
翻って考えてみれば、民主主義近代国家という一見合理的に見える統治システムの方にこそ、どこかに歴史のドロドロを収めきれない無理があるのかもしれない。
国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその22
■フランスのペット事情
フランスは矛盾の多い国だ。
犬連れ散歩中の人の愛犬溺愛ぶりや、様々なペット愛護の法律などを見聞するたびにフランスはペット天国のように思えていた。
カフェやレストランのテーブルの下で主人の会食が終わるのをおとなしくじっと待つ高度に躾けられた犬を目にするときには、一瞬あわれな気がしないでもないが、そこにペット文化の歴史の厚みを感じたりもしたものだ。
一方SNSには、森の中などに捨てられたペットのレスキュー映像や里親との幸せな生活などが頻繁に投稿されている。
つまり、ペットの飼育放棄が未だにかなり多いことを物語っているのだ。
このギャップが気になって、少し調べてみたくなった。
調べてみると、驚くべき実態が浮かび上がってきたのだ。
フランスでは、毎年のバカンス前に飼育が面倒になった6万匹を超えるペットが集中して捨てられているというのだ。2018年の統計では、なんと年間で放棄されるペット数は10万匹にのぼるのだ。
一方、日本の環境省が発表した「犬・猫の引き取り及び負傷動物の収容状況」(2019年度)によると、全国の自治体が引き取った犬猫は合計1万4千匹ほどに上る。山に捨てられたり、飼育放棄されたり等の所有者不明の犬猫を含めると、別におよそ8万6千匹が引き取られているというから、把握されているだけで約10万匹のペットがすてられていることになる。
数字でみると、ペット先進国と思っていたフランスの飼育放棄は日本と変わらないし、人口比で言えばフランスのほうがよほどひどいといえる。
実はわたしにはペットを飼った思い出はほとんどない。
遠い記憶では小学校に上る前に、当時はたくさんいた捨て犬の子供を拾ってきて数日だけ飼ったことがある。ところが、ある日突然いなくなって悲しんだ思いがあるのだ。突然逃げ出してしまったと言われていたが、どうも父親がこっそりとどこかに捨ててしまったらしい。今でもその垂れ耳の黒い子犬の姿は脳裏に焼き付いている。
そのままでは可愛そうと思ったのか、父親がカナリヤを飼ってくれた。餌をあげるのは楽しかったが、糞の掃除は大変だった思いがある。コロコロとよく鳴いたが人になつきはしなかった。
川からすくってきたフナや、小さな金魚を飼ったりもした。
ただ、捨て犬を失って以来、人になつくタイプのペットを飼うことはなかった。
NYにいたころ、内装工事の仕事先に見事な金髪のゴールデンレトリバーがいた。私を見かけると飛びついてきて、腹を撫でると完全に仰向けにひっくり返っておとなしくなるのだった。
また、イーストビレッジにあったロフトにはスカイジャックという名のキジトラ雄猫がいた。家主でアーティストの佐々木耕成さんが飼っていた猫で年齢不詳だった。この猫も私にはよくなついていた。
1年ちょっとして、私がそのロフトをあとにしてパリに発つ日がきたときのこと。1月下旬の寒い日だった。
前日の夜、ベッドの上においていた私の厚手のアーミーコートの上になんと小便をされてしまったのだ。スカイジャックはそれまでいちどもそんなそそうをしたことなどない。私の出発を悟って、止めようとしたとしか思えなかった。いまだに生々しく蘇る思い出だ。
ボードレールの詩に猫は神だと謳う節があるが、私は今でも本気でそう思っている。
したがって、ペットについての思いを多少は話せる資格はあるかもしれない。
もう一つ、私には飼ったこともないペットについて何かを言ってもいいかもしれないと思える理由がある。
ただし、専攻した理由もいい加減だったし、獣医師免許も取得してはいない。
当時、理類に合格した学生は2年ほど教養部で学んだあと、学部に進学するに際して、希望学部と学科を選択する。
選択肢は他に工学、理学、農学、薬学等もあった中で、獣医学を選んだ決め手は卒業後の進路統計で、1位が「その他」、2位が「大学教官」というユニークさに惹かれたからだ。要は獣医学の分野で何かをしたいと思ったわけではないのである。もっとも、教養部の私の成績では、選択肢の幅がかなり狭かったことも事実だ。当時は希望者が少ない学部の筆頭でもあったのだ。今は、なぜかとんでもなく狭き門になっていると聞く。
志望理由が不純だったせいもあるし、70年安保闘争、大学封鎖の真っ只中でもあって、気がついたら休学してヨーロッパをヒッチハイクで回っていたというわけである。結局そのまま退学してしまった。
ただ、国立大唯一の学部体制で、学部1学年24人。教員のほうがはるかに学生数を上回るという恵まれた環境だった。ひと時代前には、北大獣医学部生の最低点が獣医国家試験の合格点であったと囁かれていたり、臨床獣医師になることをフィールドに降りると称すなど、鼻持ちならない自意識に満ちてもいた。
まあ、私はさっさとやめてしまったとはいえ、札幌円山動物園で亡くなった大型動物が寄付されて解剖に供されたり、人間では不可能な生体解剖などを体験することができた。巨大なキリンの死体から両手のひらに入るほどの小さな胎児を取り出したこともあった。
それは衝撃的な光景だった。
馬や牛の前脚の肩には、人間のような関節がなく本体骨格とつながっていないとか、蛇の骨格標本には4本の足の痕跡があることなど、新鮮な発見もあったものだ。
したがって、今でも犬や猫の内臓の位置がどこにあるか程度の知識はあるのだ。
さて、改めてフランスのペット愛護体制について調べてみると、いくつかの特徴が浮かび上がってきた。
一つはペットの全体数がとてつもなく多いこと。
ハムスターや爬虫類等も含めてペットの総数が約6500万匹、人口一人あたり1匹、世界1と言われている。
日本の犬と猫の飼育総数は約2000万匹と言われているから、他のペットを含めてもフランスは日本より相当多い。換算すれば日本全国で1億2千万匹のペットが暮らしていることに匹敵する。
最近の統計によると猫の飼育数が犬を大きく上回った。毎日の散歩負担がなく、エサ代などの経済的負担も少なく飼育が楽だからと言われている。日本も同じ傾向だというが、庭付きの戸建て住宅が多い私の住むあたりでは犬が多いようだ。公園や海辺ではリードを解かれた犬たちがのびのびと駆け回っている。
家から出ることがないせいか、猫はほとんど見たことがない
犬の糞のあと片付けキャンペーンもかなり行き渡ってきた。
一時期に比べると目に見えて減ってきたし、自治体の負担で普及している点も日本とは違う。
フランスでは無理だろうと言われていた禁煙や飲酒運転禁止処置と同じように、ワンちゃんの落とし物規制キャンペーンもかなりすすんできた。時代は変わってきているのだ。
もう一点は法的なペット保護政策が19世紀中旬から施行されていて、特に近年大幅に進展していること。
実態はともかく、ペットの飼育を放棄し道端や森に捨てる行為は、動物虐待や劣悪な環境での飼育と同等の罪に問われる。
最高で2年の禁固刑・30,000ユーロ(約380万円強)の罰金が科せられ、2度と動物を持つことができない。
また、犬をつないだままベランダに放置しているだけで、直接的な暴力でなくても、適切な環境で動物を育てていないと判断され通報されれば、刑法もしくは罰金が課せられる事もあるという。
フランスにはSPA(Société Protectrice des Animaux)という1845年創立の動物愛護組織がある。「1850年7月2日法(グラモン法)」という名称の動物虐待を禁止する条項が定められる5年も前に設立されている。
1845年といえば、日本では水野忠邦の天保の改革が頓挫して、引退蟄居させられた年。開国、倒幕へと一気に歴史が動いたころだ。
現在では、SPAは警察機動隊と連携して、1年間だけで13,400件以上の動物虐待調査を実施し、救助活動を行っている。
グラモン法は、のちに「1976年7月10日法」として動物愛護の規定を厳しくする形で補足されている。そこでは動物のことを「感覚ある存在」と明記することで、人間同様に肉体や精神への虐待行為をすることを禁止しているのだ。
さらにフランス独自の動物愛護に関する法律として「1970年7月9日法」がある。
この法律においては集合住宅でペットを飼育することをオーナーが禁止する規定は無効と定めている。
つまりアパートやマンションに入居をするときの契約内容に「ペット禁止」という条項を設けることが違法で、仮にペットを飼育したことを理由に退去を命じられてもそれを無効にできるのだ。
ただし飼育していたペットが他の住民に何らかの迷惑行為をした場合については救済の対象とならない。
保護動物や危険と判断される動物、例えば土佐犬・ボーアボール・ピットブルなどは対象外だ。
お店や飲食店の他にも、交通機関に乗る場合もペット同伴であることを理由に拒否されるということはない。
一方で、マイクロチップを注射で埋め込む方法による動物の固体標識の設置が義務づけられている。
フランスで動物を飼う時は、人間と同じようにかかりつけの獣医を決める。猫も、犬も健康診断し、予防接種、マイクロチップを体に埋め込むのだ。
母子手帳のような動物の手帳に登録するときのペットの名前には飼い主の苗字が入り、まさに家族の一員として登録される。
年度ごとに名前に使えるアルファベットの最初の文字が複数決められる。つまり名前を聞けば何年生まれかすぐわかるようになっているのだ。
そしてフランスでもSPAなどの働きかけにより、ようやく2024年からペットショップで犬猫の販売が禁止となる事が決まった。
私などからみれば、え、まだペットショップがあったの?という感覚だが、この国会採決はペットショップだけではなく、プロではないブリーダーも対象になり、今後ネットを使用した犬猫の販売も一切できなくなるとのこと。
今後、新たにペットを飼うには、プロの優良ブリーダーから購入するか、もしくは保護施設・シェルターなどから譲り受けるかの2択しかなくなる。
また、フランスでは生後8週間未満の子犬・子猫を購入できない。
親と一緒に生活させ、社会性を身に付けさせる期間が決まっているのだ。
実際は生後3ヶ月までは母親と一緒にさせるのが一般的だ。
生後3ヵ月以内の購入は、基本的にどのブリーダーからも拒否される。
ここまで歴史もあり、整備された制度をみると、まさにフランスはペットの天国のように思われる。
しかし、一方で年間10万匹の飼育放棄の現実があり、体に埋め込まれているマイクロチップを引き抜いたり、高級種の窃盗事件もあとを絶たないのだ。
ドイツやイギリスと比べても飛び抜けてひどい数字だ。
一方、ブリジッド・バルドーのような過激な私的動物保護運動家も多く存在する。
本人の全盛期には、実の子供の育児放棄で名をはせ、全裸でミンクのコートに包まれていたのだが。
「動物の倫理的扱いを求める人々の会(PETA)」なる団体の活動家らが黒い液体を自ら浴び、ファッション業界での皮革の使用に抗議する集会がパリのエッフェル塔前広場で展開されたりもする。
実際、毛皮のコートなどはまず見かけなくなったし、皮革コートやジャンパーなども極端に減った。
フォアグラ農家やブロイラー農家、ケージ飼育する鶏卵業者批判も実験動物反対運動などとも連動して活発だ。はちみつ農家にさえミツバチの労働成果をかすめ取る残虐な行為だとして反対する者も現れている。
もちろん、イルカ、クジラの保護運動にもつながっている。
ビーガン(ピュアーベジタリアン)運動の高まりも無視できない規模になってきたし、魚も活造りなんかは完全にアウトだ。
行き着く先は精進料理の世界しかない。
ペット愛護の社会的高まりの先は、あらゆる殺生の禁止に向かって行くようにも見える。
こんな動きに人間はどこまでついていけるものなのだろうか?
そんな国で年間10万匹の飼育放棄が繰り返されているのだ。
何事にも、本当に振れ幅の大きい国だと実感するのである。
国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその21
■フランスの医療体制
こちらに来て1年5ヶ月。フランスの医療制度の実態について、期せずして本当に詳しくなった。
かかりつけ医から各種専門医、検査入院に総合病院の体制から生体検査等のラボ。さらにリンパマッサージ師や言語矯正士に薬局のシステムにいたるまで、この間それはそれは高密度でお世話になったからだ。
病院のお世話にならざるを得なかったこと自体は嬉しいことではないが、実体験した様々な事象はとても幸運だったように思える。
フランスの医療制度は、様々な社会保障制度といっしょにここ数十年、改正に改正を重ねてきて、基本的には生活弱者に優しいものになってはきている。医療水準も世界で最高のレベルにあると言われている。
ただ、日本に比べると極度に分業化が進んでいるためにシステム自体が複雑で、診療予約から治療の完了までにやたら時間がかかるという難点も抱えている。
以下、具体的体験談としてまとめてみた。
まずは保険制度。
日本と同じ国民皆保険制度の元にあるフランスでは、全員がCPAM(Caisse Primaire d'Assurance Maladie=医療保険一次金庫)が発行する保険証CARTE VITALE(カルト・ヴィタル)を所有する。フランスの社会保障制度(sécurité sociale)全体を象徴するカードだ。フランスに3ヶ月以上滞在する外国人にも同等に適用される。
実は、私も妻も日本の国民健保制度に今でも加入しており保険料も払い続けている。しかし、こちらでも頻繁に病院通いが必要なので、すぐに加入申請した。フランス国籍の妻の方はすぐに加入できた。私自身もコロナ禍の影響で、時間はかかったものの、一定の手続きを経て、昨年8月には交付された。
こちらでかかった医療費は領収証を添付して日本の国保事務窓口に申請すれば、還付されるとされている。
しかし、しばらくは帰国もままならないし、病気や事故はいつ何が起こるかわからない。
このCARTE VITALE(カルト・ヴィタル)には15 桁の個人を特定するナンバー(日本のマイナンバーにあたる)とICチップが埋め込まれていて、基本的個人情報と病歴や購入薬品歴などのデータがすべて記録される。
このカードで、特殊な治療や薬を除いて医療費の約7割が免除、または後で還付される。
これ以外に、民間の保険会社が提供する保険制度(Mutuelle)に加入する。
市場競争の激しい分野で、各社様々なメニューと料金体系を準備していて、一般的には加入すれば医療費はほぼ100%カバーされるしくみだ。
従業員数の多い企業では、特定の保険会社と契約し、従業員には割安の医療保険が提供されている。もちろん家族もいっしょに加入できる制度だ。
詳しい制度を知りたい方は「フランスの医療保険制度」でググれば、様々な最新の情報を詳しく知ることができる。
何れにせよ、95%以上のフランス居住者は直接負担する医療費がタダということになっているのだ。
診療・治療体制。
フランスの医療体制は、いわゆるかかりつけ医を起点として地域でネットワーク化されている。まずは近所のかかりつけ医に相談し、各種の専門医や総合病院、検査機関などを紹介してもらい、そこに予約してから治療をうける。
風邪程度ならかかりつけ医が治療してくれる。薬は、処方箋を持って近くの調剤薬局で購入するシステムだ。
かかりつけ医を通さずに直接診療できるのは、歯科医、産婦人科医と小児科医、それと眼鏡を必要とする際の眼科医だけだ。もちろん救急車は救急専門医に直行する。
我々のかかりつけ医は歩いて2分ほどのところに診療所を構えている。入り口脇の壁面に名前の刻まれた小さな金属プレートが掲げられているだけで、一般の住宅と見分けがつかない。フランスの開業医は、歯医者も含めて概ね似たような佇まいだ。
入ってすぐ待合室があり、その向こうに受付専門の事務職がカウンターの中にいる。電話予約や急患などを仕切るが、会計事務はしない。後ろに診察室が2つ並んでいて、医者は2人だ。診察室の中には問診や事務用の対面デスクがあり、奥にはかんたんな医療機器を備えた診察台がある。
我々は、パーキンソン病の専門医から、心臓や腸、膝、足指など様々な専門医の門を叩いたが、診療所の体制はほぼ同じで、看護師は見たことがない。
数人の専門医を抱えた共同クリニックでは、受付が会計事務もやるところがあるが、多くは医者が自ら会計処理もする。Tシャツにジーンズのままで白衣を着ていない医者も多いし、診察室内で処方箋や診察費の請求書、領収書なども自ら出力して対応する。支払いの際のクレジットカード処理や、現金のやり取りも医者が自分で行うのだ。診察室の雰囲気は日本とはかなり違う。
とにかく、医者は看護師なしで大抵の処置や事務を同時にこなすのだ。
動きを見ていると、たしかに日本の開業医もやろうと思えばできないことはなさそうだ。それだけで、日本でもかなりの医療費削減が実現できそうだが、日本の医者はとてもやりそうにない。
地域には緊急や重症の患者に対応し、大型の検査機器を使う検査入院なども受け付ける総合病院もある。
我々はかかりつけ医からの紹介状を持って様々な検査や治療のために何度も訪れた。紹介状があるとはいっても、予約は自らしなければならない。
今はコロナ禍の影響もあって、1ヶ月待ち程度はあたりまえだ。
私自身も、日本で処方してもらった心臓やコレステロール、血圧等の薬が切れたとき、まずはかかりつけ医で、日本の薬と同じ成分のものをネットで調べてもらい、当面の薬を処方してもらった。
専門医の診察を受けるまでにはかなり時間も掛かりそうだったからだ。日本で書いてもらった英文の診断書に薬の名前も英文で記されているのだ。
診察料は一律25€(約3千円ちょっと)。診察室内で、その医者に直接現金で払った。あとでCARTE VITALE(カルト・ヴィタル)登録時に記した銀行口座に薬局で払った薬代とともに約7割が還付されることになる。
その時同時に、生体検査ラボの紹介状ももらって血液検査を受けた。検査の結果はCARTE VITALE(カルト・ヴィタル)の裏面にはられたパスワードを入力して、WEBからダウンロードする仕組みだ。
その結果を受け取ってから総合病院に所属する循環器専門医に予約を入れ、紹介状を持って診察を受けたのである。
ここまでで軽く1ヶ月近くかかっている。
その専門医のところでは心電図の検査も受けたが、そのときも総合病院とはいえ看護師のいない診察室だった。心電図のとり方が日本と違っていて興味深かった。電極センサーの取り付け位置がかなり違うのだ。
その医師も、結局はネットで日本で処方された薬と同等品を検索して、同じ成分のものを処方してくれた。毎日の常用薬なので、処方箋は半年分を準備してくれたが、薬局では、2月分程度しか出してくれない。一度には出さないルールなのだそうだ。
その時にアルコールのとりすぎを注意された。血液検査値がかなり高かったようだ。
自宅蟄居が続くと、どうしても運動不足になり、逆にアルコール摂取度が高くなる。
フランスの医者に酒の飲みすぎを注意されるとは、つい苦笑してしまった。
妻の方は2度ほど、別々の総合病院で検査入院をしたことがある。
コロナ禍の元での診療なので、通常とはかなり違うとは思うが、フランスの医療体制を垣間見るにはいい機会であった。
ただ、いろいろ聞いてみると、パリなどと比べると、このあたりは何かに付けて恵まれているように見える。
これから、フランスに長期滞在する予定のある方は、できることなら豊かな地方都市のほうがいいように思う。
社会保障制度だけではなく、古き良きフランスの市民生活やコミュニティの温かい人情などを味わうことができる。
こちらに来てからスピード感にイライラしたことはあっても、嫌な思いをしたことは全くない。
昨年、パーキンソン病の専門医に勧められて、脳深部刺激療法(DBS)手術のために、地域最大の総合病院に検査入院したことがある。その手術に関してはフランスでも最高権威とされる医師を紹介されたのだ。
なかなか予約が取れないことでも有名だったが、予約に関してわざわざその医師自ら電話をくれた。
もし手術となったら、さらに大きなボルドーの総合病院に入院することになるという。
コロナ禍のこの時期、重症患者が溢れている総合病院での難しい手術には抵抗もあった。しかし、我々は目の前のQOL(Quality Of Life)を優先することに決めていたので、手術もいとわない覚悟はできていたのだ。
2泊ほどの検査入院の結果、今の所、常用している薬の効果がかなり効いているようなので、あえてリスキーな手術はしなくてもいいのではないか、との結論であった。
ただ、年齢的にこの手術のチャンスは今回が最後なので、他の専門医ともよく相談してみてから最終判断を連絡するとのことだった。
後にいつもの専門医のところで、最終結論について説明を受け、投薬治療を続けることで決着したのである。
確かに10数種類の薬を一日何度も飲み続けるのは大変なことには違いないが、脳に電極を埋め込む手術をしなくてもすんだことには、正直ホッとしたものだ。
我々はこれ以外にも、毎週2回リンパマッサージの理学療法士(kinésithérapeute:通称kinéキネ)に来てもらっているし、週一回のペースで言語療法士(Arthophoniste:オートフォニスト)に通い、保険の効かないキャッシュオンリーの膝関節治療の専門医のところにも行っている。
さらに、保険適用外治療を含む歯の全面治療にもかかっている。
新たな診察予約も入れたばかりで、今後も次々と病院通いが続くに違いないのである。
日本ではリンパマッサージは保険適用外だったし、すべて3割は自己負担だから、日本でこれらすべてをやったらどのくらいの医療費負担がのしかかってくるものか、気が遠くなる思いがする。
こちらでは民間の保険制度(Mutuelle)がカバーしてくれる部分も大きいので、なんとかやっていけているというわけだ。
支払い保険料を含めても、日本と比べれば格段に小額で高度治療も受けられる。私自身も、年齢的にはこちらの医療制度のお世話になることは時間の問題だから、この間の具体的経験はかなりありがたいことでもある。
あとは、いつどうやって日本の国民健康保険制度から脱会するかという大きな課題が残っている。
社会保障制度とは、どこの国でも最も批判や不満が大きい分野でもあるが、帰属する社会の歴史や文化が色濃く反映されていることだけは間違いない。
国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその20
■FORMATION CIVIQUE(市民講座)第3日目コース
その知らせは、いつものように突然舞い込んだ。
PAU での市民講座第3日目コース履修の召喚状が、2月12日付けで私のメアドに添付資料付きで送られてきたのだ。
コロナ禍対策の注意事項も添付されていた。
指定日は2月23日(火)。9:00スタートで14:00まで。時間はいつもより大幅に短縮されている。時節柄レストランが閉鎖中なので、通常はオファーされる昼食は抜きとある。
場所は前と同じホテルの会議室だ。
私は10年有効のTITRE DE SEJOUR(滞在許可証)を受領したばかりなので、なんのための講習なのか、今となってはよくわからない。
これは1年間の滞在許可証を取得するために必要な講習で、4日間4回に渡る必修プログラムの一つと理解していたからだ。なぜ今さらそれが必要なのかももう一つピンとこない。
もっとも、一連の行政手続きは圧倒的によくわからないことのほうが多い。ここは余計な憶測に時間を費やすことは止めて、すぐに、以前と同じホテルに一泊予約を入れることにした。
指定日の前日、2月22日(月)夕食用のサンドイッチとビールも荷物に加えて、久しぶりの一人旅に出た。レストランはすべて閉まっているし、18時以降は外出禁止。何よりPAUにはうまいものがない。
午後3時には家を出て、土砂降りの雨の中、高速を飛ばしてPAUへ向かった。昨年の7月中旬以来だから、7ヶ月ぶりだ。PAUの市内はわかっているつもりだったが、さすがに7ヶ月ぶりだと少し迷ってしまった。それでもナビアプリ「Waze」を頼りになんとか5時前にはホテルにたどり着いた。
前回一緒だった難民たちもどうしているか、再会も楽しみだった。
ただ、出発前日のTVニュースでは、PAUの難民収容センターで殺人事件が発生したことが大きく取り上げられていた。
7ヶ月前の受講者の多くがそこに滞在していたはずなので、若干心配でもあったのだ。
2月23日の朝、9時に会場に入ってみると、講習者も講師、通訳も含めて顔ぶれは全く変わっていた。講習参加者は、17〜8人だったが、7ヶ月前の顔見知りはシリア系クルド人難民とチベットからの亡命者の2人だけだった。
訊くと多くは他県の施設等、全国に移動してしまったそうだ。
今回英語通訳が付くのは私とチベット人の2人だけだ。アラブ語通訳付き受講者も前回よりはずっと少なくて、旧植民地系アフリカ人と、ブラジル、ニカラグアなどの南米系が多いのだった。結局直接フランス語で受講できる人数が前回よりは圧倒的に多かった。
受付での登録時に日本人だというと、講師のおばさんが大声で話かけてきた。なにやらバスク地方のソシソンやハムを製造しているところに勤めている若い日本人女性とすごく親しいとのこと。とてもいい娘で、フランス語が不自由なこともあって、いろいろ面倒を見てあげたいのだという。あなたの知り合いで、フランス語の堪能な日本人は近くにいないか?とのこと。写真まで見せてくれて、その娘をとにかく褒めまくるのだ。
パーフェクト・バイリンガルの娘のメアドをとりあえず教えたが、とにかく日本が好きだという。前回と打って変わって、とにかく明るいブラジル人女性たちも出席している。彼女たちもコンニチワ、サヨナラ程度の日本語で近寄って来た。英語通訳のロシア人も加わって、日本だいすき談義が続く。もちろんSUSHIがうまいという話はお決まりのネタだ。日本通の話のレベルは50年前と全く変わらない。
講義の前に、私はすでに10年滞在許可証を受領しているのだが、この3日目、4日目コースの受講の意味を知りたいと、説明を求めてみた。
回答は明快で、最初の段階で、フランスに滞在するにあたってこの市民講座を受講する旨の誓約書にサインしていることが根拠だという。滞在許可証やビザの発行とは全く別の話だとのこと。受講はフランス文化に溶け込んでもらうための義務の履行だという。
また、10年滞在許可については、基本的に難民認定者は帰る国がないので、優先的に交付されるのだそうだ。難民以外への10年滞在許可交付は特殊な場合だとのこと。ただ私の特殊性については、結局なんだかわからないままだった。
講師は、雑談、蛇足談義が好きなようで、一人ひとりの自己紹介のたびに面白おかしい話に花が咲く。講義のスタート前にすでに小一時間かかっている。やっと始まるかと思ったら今度はパワポ用プロジェクターのセッテイングがうまく行かず、ああでもない、こうでもないともたもたしているあいだに10時半を過ぎた。
結局プロジェクターセッティング完了から15分ほど、全体のプログラムや前回までの話しなどをレビューしてすぐ休憩時間になった。
休憩時間はどのくらいかと通訳に訊いてみたら、15分程度だろうとのこと。休憩ラウンジでコーヒーを飲んで、15分後に会議室に戻ってみたが、人は半分程度しか戻っていない。講師もまだいない。結局3〜40分経ってやっと講習が始まった。すでに11時をはるかに過ぎている。通訳によるといつもこんな調子だという。
今回の講習内容は、前回と重複する内容も多いが、歴史、文化、社会制度等について質疑応答形式で進められる。結構皆意見を言うし、それぞれの出身国の歴史や文化につても活発に話をする。
講師は、自身赤十字でいろいろな立場の生活困窮者の救済活動に従事した経験があって、具体的事例を交えて討論をリードしていく。
ローマ時代からの歴史やフランス革命、男女平等政策などの経緯も私はそれなりに知識としては詳しい方だ。フランス語のレクチャー内容にもなんとかそのままついていける。フランス語のリスニングにはかなり慣れてきたことも実感できる。
ただ、英語通訳のロシア人の通訳能力は劣悪で、直接フランス語で聞くほうがよく分かる。時々正しい英語の単語を教えてあげなければならない始末だ。まあ、10歳と5歳の子持ちだというが、金髪のスリムなロシア美人なので、かなり得をしているように見える。おそらく能力審査も甘く、日当も安いに違いない。
今回最も時間をかけたのは、前回と同じく政教分離(laïcité)政策の歴史と、それに伴う法律や制度など。イスラム教徒が多いせいだ。そして驚くことに、女児への性器切除手術などの風習がこちらでは法的に禁止されているという話が、実例つきで延々と続くのだった。カメルーンやスーダン等からのアフリカ系参加者が多いせいなのだろうが、フランス国内においてさえ、未だに続く深刻な問題だということなのだ。
手術といっても、手持ちの粗末なカミソリや石片などを使ったひどいもので、麻酔や消毒などもなく、感染症で亡くなる子や、一生トラウマとなる子どもたちがあとを絶たないのだという。
そんな過酷な経験のある女性が、ロンドンでトップモデルとして成功するまでの実話を描いた映画なども、映像付きで紹介されるのだった。
普通の日本人には想像を絶するおぞましく深刻な問題が、ここでは日常の中に潜んでいる。聞いているだけで身体中に虫唾が走るような話だ。
一番盛り上がったのは、子供の権利に関するフランスの法律や制度の話のときだった。子供と親、そして子供に対する社会の責任の話だ。
ドメスティックバイオレンスは、今や世界共通の深刻な問題だが、子供へのしつけの度合いについても厳しいものがあることが示された。
たまたま子供が親との折り合いが悪く、親にこんなふうに叱られたと学校で言った日には、親が呼び出され、事実なら子供を取り上げて施設に入れると言われるのだそうだ。
日本でも、深刻なDVで子供がひどい目にあったあとなどは、社会が子供を救う必要があるという議論はよく聞くところだ。
しかし、子供は社会のもので、親の所有物ではないという概念が行き渡り、親に問題があれば、容赦なく親から引き離して施設で保護するという制度が行き渡ったフランスでは、その事自体が新たな問題を引き起こしているというのだ。特に移民の親には耐えられない制度に映るという。
朝、親にこれをしては行けないと叱られた子供が、学校で教師に、さほど深い意味ではなく、親にひどく叱られたと訴えたら、すぐに通報されて、子供を取り上げられる恐れがあるのだという。
ロシア人通訳も10歳の多感な子供が、叱られたあと、学校で親が・・と言ったところ、呼び出されてひどい尋問を受け、子供を引き離すと言われたという。
そんな話はいっぱいあって、子供のしつけに少々の体罰は当たり前とされる国からきた移民は、DVだと言われて困惑するという話が続いた。
アフリカ系の男性は、うちの10代の男の子は私よりも身体能力は強くて、DVの被害者はむしろ私のほうだと、冗談交じりで訴え、笑いを誘った。フランス人講師もしばらくのやり取りのあと、フランスの制度には行き過ぎのところもあるし、問題も多いのだと神妙に語ったものだ。暗に制度の欠陥を認めていた。
離婚した外国人の方の親が子供に会えない日本の制度についても話があった。唯一の日本人である私に話題をふられたが、解説できるほどの知見を持ち合わせていない。日本はまだ親が子供に会える権利に関する国際条約を批准していない旨の、ニュース知識を披露することしかできなかった。改めて問われて見ると、なぜ日本が批准していないのか全くわからない。
日本に残した子供に会えずに自殺したフランス人の父親もいるのだそうだ。
こうして講習はあっという間に予定時間の14時ちょっと前に終了した。
終了後に受講者それぞれに第3日目過程の終了証が配布されるのだが、その前に第4日目過程についての説明がなされ、それぞれの希望を記入する紙が回ってきた。
4日目コースは3つの実践見学プログラムから、希望のコースを選択することになる。
1つはフランスでの職業選択にあたって、プロの職場実態を見学するというもの。
2つ目は、知っておくと役に立つ様々な社会制度の実態を見学するコース。
3つ目のコースはフランスの文化について、美術館や博物館を見学するというものだ。
ただ、3つ目の文化体験コースは、おりからのコロナ禍によって、現在全ての文化施設は閉ざされており、今のところ再開の目処は全くついていないとのことだった。
私としては、すでに10年滞在許可を得ていることもあり、いつになるか全くわからないものの、3番目の文化体験コースを選んだ。受講者中、それを選んだのは私だけだった。
他のコースには興味がないし、今や待つことには慣れている。
こうして3回目の市民講座の受講は無事に終了し、家路を急ぐことにした。
天気は前日と打って変わって雲ひとつない快晴。高速道路もすいていて、時速135〜140Km程度を維持しながらあっという間に舞い戻ったのだった。
高速道路脇には、富士山にあるのとほぼ同じ、ポップコーンのような花をつけた山桜が、満開で連なり目を和ませてくれた。
こちらに来て1年4ヶ月。フランスでの生活にもかなり馴染んで来た実感を味わいながら、途中近所のスーパーに立ち寄り、食料品やいつものシングルモルトウイスキー「BOWMORE」を買い込んでからの帰宅であった。
国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその19
■ ビザ延長手続きー最終結果
さて、昨年11月25日にバイヨンヌ(Bayonne)の県支庁舎に出頭して
ビザの延長手続きをしてから、ちょうど2ヶ月経った1月25 日(月)、県庁からの封書が舞い込んだ。
どうやら、やっと新たな動きが出てきた。申請手続きに着手してから数えると、ほぼ4ヶ月経っている。つまり、ビザが切れてから4ヶ月ほど経っているということになる。
コロナ禍と重なってしまったからとはいえ、これまで帰国もままならず、ビザ切れ、運転免許証なしで滞在中ということになる。厳密に言えば不法滞在、無免許運転中ということだ。
もっとも、私に落ち度は全くないので「知ったことか、なるようになれ!」の心境で、極めて落ち着いた生活であったことは事実だ。
ただ、外出規制(confinement:コンフィヌモン)の中での日常生活にはほとんど変化がないので、新しい出来事にはささいなことにでも敏感に反応してしまう。
私宛の封書などめったに無いことなので、マンション入り口の外にある郵便受けの前で、早速封を切った。
「Titre de séjour(滞在許可証)」の交付手続きが整ったので必要書類を持参して出頭せよとの文面だ。
手続きに先立って€225(約¥28,900)の収入印紙を購入し、そのレシートを持参せよ、また出頭時間はWEB上から選択して予約せよとある。
早速、その極めてわかりにくいWEB上で、金曜日29日の11時30分のアポイントを入力した。予約確認のメールだけは速攻で返信されてきた。
遅刻厳禁、所要時間15分とある。必要書類は、収入印紙のレシート以外にはパスポートと、2ヶ月前にもらったビザ延長正式手続き中の証明書、それに現有のTitre de séjour(滞在許可証)とある。Titre de séjour(滞在許可証)がないから申請しているのだから、ないものはない。
さて、29日(金)に予約を入れたのには訳がある。その日の午前9:00に近隣で最大の総合病院に診察予約を入れていたのだ。
病気のデパート状態の妻に新たに心配な症状が出て、診てもらうためだ。
かかりつけ医から紹介してもらって予約したものだが、その病院はコロナの重症患者も受け入れている県下の大きなハブ病院でもある。
来院に関してもコロナ予防処置が厳格で、コロナ以外の一般の患者は予約を取るにも平気で1ヶ月は待たされる。
そこをなんとか頼み込んで、12〜3日後の予約をやっととったばかりだった。
病院から県支庁舎までは車で10分以内の距離なので、同日に決めたのだった。
ただ、もし、病院での診察がややこしいことにでもなったら、11時半からの県庁アポは少々リスキーだ。
万一に備えて、娘にも同行してもらうことにした。
診察室への同伴は許されないので、娘は待合室、私は駐車場で結果報告を待つことになった。
幸い、心配することはないとの診察結果を得られ、3〜40分で終わってしまった。ほっとした一方、あいにくの雨の中、時間を持て余すことになった。
担当医はこんな時期の医療関係者にしては、とても親切快活で、今年諦めざるを得なくなった日本への旅行について熱く語ってくれたという。一度日本にいったことのある友人知人は、全員がもう一度行きたいと言うのだそうだ。
日本での快適なおもてなし体験は、こうやって回り回って在外邦人にもいい影響を与えてくれる。ありがたいことだ。まずは、来日するどんな国からの来訪者にも好印象を持ってもらうことは、翻って日本の在外活動へのかけがえのない支援にもなることを改めて認識した次第だ。
バイヨンヌの県支庁舎への出頭は2度めになる。
アドゥール(Adour)川沿いにあるその建物には、広い前庭に面した物々しい鉄格子フェンスがある。その入り口フェンス越しに、受付担当者と意味不明のゆるいやり取りのあと内部に入る。わざわざ出て来なくてもインターフォーンを通して予約確認のやり取りも、開閉機能コントロールもできるのだ。
少し早めに着いたのだが、空いていたせいかすぐに受け付けてくれた。事務手続きは単純な確認作業だけなので淡々と進むのだった。それにしても担当事務の女性は無駄な動きが多い。要領の悪い緩慢な手続きがほぼ無言で進められるのだった。
そして、最終的に受け取ったカードには思いがけず、有効期限が2030年までの記載があった。
意外だったので、10年有効なのか?と聞いてみたら、そうだけど何か問題がある?と返された。
裏面にはどんな職業にも就業できる旨の記載もある。
ネット上の体験談などでは、更新は、1年、3年、5年のステップを経て、最長の10年の取得までにはかなりの年月がかかるとされている。しかもそれを得るにはフランス語能力のレベルも高いものを要求されるし、場合によっては担当官が突然家までやってきて、夫婦がともに暮らしているかどうか、飾ってある写真までしっかりチェックされることもあると知らされていたものだ。
2ヶ月前に手続きが終わったときに、発行される許可証の有効期限を訊いても全く答えはなかったので、本当に意外だった。
それにしても、まったく認可の基準も所要時間もわからない。管轄地域や担当官、時の情勢等によってまちまちなのだ。おそらく私の体験もこれから申請する人の具体的な役には立たないのだろうと思う。
何しろ、昨年夏、2回やったPAUでの研修もあと2回残したままで、未だになんの音沙汰もない。最初の1年間の滞在許可を取得するにはその4回の研修が必須のはずなのだ。
つまり、私は最初の1年間の滞在許可を得ることなく、直接最長の10年有効許可を取得したことになる。
長期の滞在許可を申請するのは、今持っている滞在許可の延長申請という意味だから、現有の滞在許可証を持参せよとはそういう意味だったのだ。
私の場合は結果良しだが、特にこのコロナ禍の中では、よほど神経が図太くなければ、これらの行政処理のわからなさ加減には耐えられないかもしれない。
まあ、狐につままれたような感じだが、結果的に、これであと10年、ビザや滞在許可の事務手続きに煩わされることがないことだけは確かだ。
こちらの健康保険制度への加入も昨年8月にできているので、滞在ステータスはかなり安定したといえる。
あとは、運転免許証の手続きの結果待ちだ。すでに申請してから5ヶ月経っている。
ここまで来ると、とりあえず全てうまく行くような気がしてきた。
国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその18
■ヨーロッパに浸透する日本語
娘がパリで演劇を学んでいた頃のフランス人の友人で、日本にも訪ねてきたことのある子がいる。
この夏、10数年ぶりで再会したが、以前にも増して感受性の豊かな魅力的な女性に成長していた。
昨日、その子から来年1月に出産予定の子供の名前に日本名を付けたいので、日本語を考えて欲しいとのリクエストが娘のところに舞い込んだという。
個人的に数週間日本を訪れたことがあるだけで、パートナーも仕事も日本とは縁もゆかりもない。
10年以上前になるが、在日フランス大使館勤務のご夫妻の娘さんが結婚し、男の子が授かったときにも、兄のときはNAOKI、弟のときはKEIZOと命名したいと相談を受けて、それぞれ当てはまる漢字名を選んで送ったことがある。このときも、その娘さんは幼少時を東京で過ごしたことがあるものの、ボルドーに住むごく普通のフランス人同士のカップルだった。
フランス語になった日本語は結構たくさんあって、柔道用語や津波(TSUNAMI)を始め、日本食の素材名などはいまや普通のスーパーにも溢れている。
SUSHI、BENTO,KOMBU、SURIMI、WAKAMEからSHIITAKEやKAKIにいたるまで、歴史的にも相当前から浸透しているものもある。
これは、フランスに限らずヨーロッパ全体に言えることだ。柿(KAKI)に至っては、スペインが、中国についで世界第二位、日本の2倍以上の生産量があるのだ。結構高価で、1個150円前後する。
グリコがこちらで販売するポッキーは「MIKADO」ブランドで大人気だが、こちらの有名クッキーメーカーなどが、同じく「MIKADO」ブランドで、ほぼ同じものを販売している。細長いスティック状の棒を崩して遊ぶゲームの名前が「MIKADO」だったから、おそらくは相当前から一般名詞化しているということなのだろう。
フランスのTVクイズ番組の中にも難解な日本語が答えとして登場することが増えた。
「MINKA(民家)」とか「KENDO(剣道)」などの単語が答えとして平気で登場するのだ。
イギリスでもスコッチの名門、シーバスリーガルが、高級ブレンドウイスキー「ミズナラ」を売り出して日本でも話題になったことは記憶に新しい。
空前の日本製ウイスキーブームに乗ったブランディングで、香り付けの熟成樽を日本と同じ「水楢」製にしたことによる。
余市産のウイスキーが、どんぐりが採れる北海道産の水楢の樽詰めを使って、日本産のウイスキーの地位を一気に高めた背景がある。
ちなみに水楢はしいたけ栽培にも広く使われる日本ではおなじみの樹種だ。
それにしてもヨーロッパでの日本ウィスキーの人気は凄まじい。かなりの高級品だし、私などは日本では見たこともないブランドも普通のスーパーの棚に並んでいる。
フランスでは、新しい単語を正式にフランス語にするときには、アカデミーフラセーズが、その男性名詞(le)か、女性名詞(la)かも含めて認定する。
ごく最近では日本製「ゲームボーイ」が、フランス語女性名詞[la]として認定された。Boy がなぜ女性名詞なのか、さっぱりわからない。もっともフランス語の単語自体の性別規定がどういう基準で決められるものなのか私にはよくわからない。同じ名詞でもスペイン語やイタリア語と性別が違うものも結構多いから、基準など知るよしもない。
最近では、マーケティング上の日本名ブランドも多く、マルチクッキング調理器具の「NINJA」などは、日本的なルーツはどこにもない。
建材メーカー「TRYBA」のマスコットはなぜか力士だ。TVCFにも登場するし、町中のショップのファサードにもディスプレイされている。
結構長いこと使っているマスコットだから、人気も高いのだろう。
時々本物の力士風のタレントがまわしにサガリをつけて登場することもある。
電動自転車の「NAKAMURA」も日本とはなんの関係もないとのことだ。
日本語的響きが高性能イメージを醸し出すとみられる。
同じ「NAKAMURA」でも、最近のフランスヒットチャートの常連「AYA NAKAMURA」はアフリカ、マリ出身のポップ歌手の芸名だ。
アメリカ製のTVドラマに出演していた日系人役の名前が単にかっこいいからつけただけだという。もちろん日本とはなんの関係もない。
昔、私の会社にインターンシップで来たフランス人の女子学生が結婚して実はご近所に住んでいるのだが、そこの娘さんが子供の頃から日本の原宿ファッションやアニメにすっかりハマってしまったという。今大学の美術学部でアニメを専攻している。日本には一度も行ったことはないが、スタジオ・ジブリで働くのが夢だという。
今でも放映している「キャプテン翼」を見てサッカー選手を目指したという有名プロ選手も多い。あのジダンやベンゼマも子供の頃みていたという。ドラえもん、ポケモンは若い世代なら誰でも知っている。
もちろん、フランス人全般が日本大好きというわけではない。昔よりはエキゾチック観が薄れたという程度だろうが、いちいち説明しなくても済む事柄が増えたことだけは確かだ。
しかし、街中で日本語で話していると、時々、今の言葉は何語か?ときかれることがあるし、日本に行ったことがあって、久しぶりに日本語を聞いたと話しかけてくる人にも何度か会った。基本的には全く別の珍しい文化に見えていることは事実なのである。
しかし、コロナのせいで日本はまた遠くなった感がある。ごく一般の人にはまだまだ遠く謎だらけで誤解も多い国であることはしばらく続きそうだ。
中国と日本の違いがよくわからない人間もいまだにいるから、パリの移民の多い区域などでは、コロナ禍以降の理不尽な中国人攻撃の矛先が日本人にも向けられることがあると聞く。
まあ、これは差別というよりは無知から来ていることだ。日本でも同じようなもので、昔出入りの電器屋のオヤジさんから、「フランス語と英語って違うの?」と真顔できかれたことがある。アラン・ドロン人気が絶頂期だったころのアンケートで、日本で一番有名なアメリカ人は?という問の答え一位はアラン・ドロンだった。
日本が注目され好感を持たれている原因は、ヨーロッパから遠く離れたところで、全くコンセプトの違う独自の文化が現代の先進国で花開いている事による。
フランスには昔からエスニックフードが数多くあるが、日本食の洗練さに匹敵するものはない。最近のフランス料理がもっとも影響を受けている食文化だろう。
イスラム教やユダヤ教との葛藤が未だに続くこちらから見れば、日本の宗教観もまた謎に包まれている。タイなどの仏教国とも大きく違うし、結婚式や季節祭事に若者も参拝を欠かさない神道の教義も今一つミステリアスだ。しかしなんと言っても平和に見える。宗教的対立など無縁の世界だ。
世界中のホテルはどこへ行ってもそのシステムはほぼ同じだが、日本にだけは伝統的な、洗練された旅館というシステムが今でも生きている。温泉旅館も日本にしかない。G7の一角にある国の中で、飛び抜けて特殊な伝統を保持している国なのだ。
こちらでのステレオタイプの日本人観には、礼儀正しく従順で、自己主張を控える体制順応型というものがある。
ところが、東京に来てみると、街の建築物はそれぞれ自己主張のオンパレードで、青山通りの街並みなどには、全く調和しようという意思が感じられないことに困惑するという。
個人主義的で個性を大事にするはずのこちらでは、同時に街並み景観も大事にする。外壁のペイントも日除けテントのテキスタイルもしっかりと規制されているのだ。
さて、私自身もフランスに来て以来、未だに理解できない不思議なことが多いが、それがこの国の一つの魅力になっていることは否定できない。
ヨーロッパ人が日本に抱く、不可思議感もまた、同じように日本の魅力の一因になっていることは確かだろう。
コロナ禍のあとの世界がどうなるか、全くわからないが、日本のこのミステリアスな感覚が色褪せず、平和な繁栄が続くことを願うばかりだ。
国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその17
■滞在ビザ延長手続きー顛末
11月に入って以来、第2次外出規制(confinement:コンフィヌモン)が続いていて、日常生活にはほとんど変化のない毎日だった。
ブログのネタを考えても抽象的になりがちで、このところしばらくは、正直書く意欲も沸かなかった。
ところが11月24日に、ビザの延長手続きに関して、やっと大きな動きがあった。
滞在ビザの延長手続きの詳細など、無縁の人にはまったく関心がないに違いない。
まあ、詳細の体験談を通じて、フランスの移民政策の現場の様子が少しわかる程度の関心がある方なら、読み進めて頂いても面白いかもしれない。
いずれにしろ、大して深刻な話でも、めちゃ面白い話でもないことは事実だ。
前日突然、翌日の25日9:45に県庁の支庁舎に出頭するようにとの連絡がきた。
申請手続きに着手してからほぼ2ヶ月がたっている。
外出規制中だったから、翌日でも対応は可能ではあったが、なんとも唐突だ。
バイヨンヌ(Bayonne)の支庁舎は、自宅から車で15分程度の距離だから、まあ実際にはそう大変な話でもない。
ただ、24日の夕方に私の携帯の留守電に再度連絡が入っていて、提出済の書類以外に、出生証明書(Acte de Naissance)を持参せよとのことだった。
それは最初の段階での必須書類の一つだから、2月か3月に提出済みで、あまりに時間がたっていて、どの段階でどういう形式で提出したものかもすっかり忘れている。コピーもとっていない。それに、今頃何のために必要なのかも皆目見当がつかない。
そもそも日本には出生証明書なるものの制度がない。
したがって、日本から6ヶ月以内の戸籍謄本を取り寄せ、在仏日本大使館でフランスの出生証明書の書式に作り変えてもらった上で、大使館クレジットの証明書が必要になる。依頼時には郵送が可能だが、受け取りは直接パリの大使館まで出向かなければならない。その上、前回はアポスティーユ (Apostille)という、日本の公文書であることの証明書も必要だった。
面倒なことに、これは東京の外務省でしか発行してくれない。アポスティーユの取り寄せも、大使館での受け取りも現地のだれかの手を煩わせなければ簡単には入手できない代物だ。日本のDX(デジタルトランスフォーメーション)はかなり遅れてしまっている。
前回はこれだけでトータル2ヶ月ちかくかかっている。
それを前日の夕方に持参せよとの連絡がくるとは、なんにもわかっていない担当官だということだけはよく分かる。
いずれにせよ、ビザや滞在許可証の延長手続きは、その時期の社会情勢によってころころと仕組みが変わる上に、各県庁の方針によっても規則はばらばら。何より、直接の担当官の裁量権が大きくて、その人の能力や個人的経験、申請者の出身国に対する偏見などに大きく左右されるという。したがって、WEB上の体験談はほとんど役にたたないのだ。
その上、このコロナ禍と重なってしまったから、私は最悪のタイミングに遭遇してしまったといえる。
フランスに3ヶ月以上滞在しようとすれば、まずは日本でビザの取得が必要だ。私の場合は1年間の配偶者ビザだ。ただ、ビザは入国の際のステータスを示すだけで、実際に3ヶ月以上滞在する場合には、別途滞在許可証が必要になる。ビザが1年だと1年間の滞在許可証が必要になるのだ。
私の場合はコロナ騒動の直撃を受けたから、出だしから異例づくめだった。
まず、滞在許可証を取得するための諸手続きが遅れに遅れて、とっくに1年過ぎた今でも申請要件が整っていない。
一番重要な要件の4セッション、4日間にわたる市民講座受講義務が果たせていないのだ。3月の予定が7月にずれ込んだあげく、2回をすませた7月以降、次期開催のめどすらたっていない。もちろん、不可抗力なので、市民講座終了時には、「滞在許可証はまだ発行されないが、2回の受講履歴があるので、何の問題もない。この間、外国への行き来にも支障はない。」と言われていた。
滞在許可の延長申請とは、所有する1年間の許可証の更新申請を意味する。
ところが、延長すべき滞在許可証をそもそももらっていないのだから、その延長を申請することはできない。
で、どうなるかわからないが、とりあえず連絡待ちに徹していた。
しかし、9月に入っても何の連絡もなく、10月2日にはビザの期限が切れるので、少々気になりだした。とりあえず、9月中には確認をとるべきと思って、WEB上の問い合わせサイトから問い合わせてみた。もちろんすぐに返事が来るはずもなく、返事が来たのはビザ期限の切れた10月7日になってからだった。
しかも、ビザの更新手続きと滞在許可証の更新手続きは別物なので、ビザの更新手続きは正式に行わなければならない、との返信だった。ビザ期限の3ヶ月前から申請を受け付けているとのことだ。
そこで、早速申請書類を整え始めた。県庁のサイトを覗き、申請書類のリストを整理して、一通り揃え始めたのだ。日本には存在しない公文書など、わかりにくいものもあったが、申請書以外に、10種類の付帯資料が必要とある。
ビザやパスポートの写し以外に、メディカルチェックの結果や結婚証明書、重婚していない旨の宣誓書や実際に2人で生活している旨の宣誓書などが含まれる。極めて不親切なWEBの情報を、娘の助けも借りて丹念に読み解き、自分でリストを作った。
中に、配偶者の国籍証明書という項目があって、もう一つ詳細がわからない。
配偶者のパスポートでは足りないらしい。いろいろ調べてみると、所属県庁で発行する身分証明書のことらしい。フランス在住のフランス人であれば全員が持っている。
半世紀ちかく、フランスを離れていたので、我が配偶者はそれを持っていないのだ。
10月7日、バイヨンヌ市にあるアイデンティティ証明書発行センターを、飛び込みで訪れてみた。この時期アポがないと相談には乗ってくれないのだが、窓口がすいていたせいもあって、必要書類を持参しての9日9:00からのアポイントをその場で受け付けてくれた。
手続き後、19 日に証明書が発行される旨の知らせが来て、当日早速受け取りに行き、その写しも同封した書類一式を20日には郵便局から発送することができた。
あとは、当局からの呼び出しアポ待ちだけだ。連絡の間隔は縮まってきている。
次に私宛に分厚い封書が届いたのは、10月30日だった。
開けてみると、先日送った書類全部と追加資料の指示書が入っていた。
要は、追加の資料を付けて全てはじめからやり直しせよというわけだ。
追加資料とは、二人が夫婦として同居していることを示す公的な資料を2〜3種類と、結婚していることを証明する3ヶ月以内の証明書を同封せよとある。
言いたいことは山のようにあるが、ここまで来たらひたすら従順に揃えることにする。
結婚の証明書はパリの区役所ですぐに発行してくれる。日本に比べてDXがかなり進んでいるので、意外と簡単にしかも無料で証明書をメール添付で送り返してくれた。
厄介なのは二人で同居している証明だ。電気やガスの請求書や、納税証明の類いに私の名前が載っていればいいのだが、どれもない。
いろいろ調べてみると、フランス人どうしのカップルでもこれには一苦労するらしい。
まあ、自動車保険の請求書や健康保険の加入証明等々、3〜4種類の私の名前が記録された書類をかき集めた。
WEB上に問い合わせ先の記載があったので、これでいいかどうかを問い合わせてみたが、予想通り何の返事もない。担当官は、手元に届いた資料を観て、その場でその時に好きに判断する裁量の余地を残してあるのだろう。
しばらく待ってはみたが、音沙汰がないのでそのまま送ることにした。なんだかんだで、結局全部そろえて再送付できたのは、11月19日になっていた。
そして、突然の出頭要請の電話連絡が来たのが11月の24日というわけである。
さて、電話での追加資料の指示にある出生証明書は到底間に合わないので、2月発行の日本語戸籍謄本と、大使館への出生証明書発行申請のフォーマットにある項目をなぞって、名前や出生地、両親の名前などをフランス語で記入した紙を用意した。
こうして25日朝、バイヨンヌの県支庁舎へ向かったのである。
県庁支庁舎はバイヨンヌの中央を流れるアドゥール(Adour)川沿いの官庁街にある。市役所庁舎は美しいが、川沿いの公園に沿った一角にある県支庁舎は周りに比べると殺風景ではある。
前庭に面した物々しい鉄格子の入り口フェンスでは、呼び出しベルを押してしばらく待つと、受付担当者がわざわざドアを開けに建物から歩いて出てくる。
建物に入れる前にチェックする建前なのだろう。
考えて見れば、これまで多くのテロリストもこの扉をくぐってビザ申請に訪れたわけである。フェンス越しに予約と名前の確認をしてから扉を開けてくれる。
建物にはいると、待合スペースがあって、その奥に窓口がオープンスペースで並んでいる。
担当者の対応を見比べてみると、それぞれかなり違う態度で接していることがわかる。金髪の若い女性担当者は、一切申請者の目を見ない。どこか遠くを観る目線で淡々と答えている。目を見ずに首を横に大きく振りながらなにかを頑なに拒否している仕草だ。私はあなた個人に寄り添って対応するわけではありません。との意思表示がはっきりと伝わる表情だ。
この人はきっと、これまで様々な体験を経て、こうなったのだろうなあと思わせる。決して楽しそうな仕事をしているふうには見えない。
20分ほど待つと、少し年配の女性担当者に名前を呼ばれて面談窓口に着席した。こちらは妻と同伴だ。
担当者は、こちらで送った資料一式を手元においている。
昨日のメッセージは受け取ったか?の質問から始まった。
出生証明書なるものを揃えるとしたら大変時間がかかるので、手元にあるものを自分で訳して持参した旨伝えると、相手は、書式上、私の両親の名前が知りたかっただけなので、それで全く構わないとのことだった。
何だ、それなら添付した家族手帳の写しに記載されているじゃない。と言ったが一切返事はなかった。
あっ、親の名前が必要だと思ったときに本人が思いついたのが、出生証明書だったというだけのことらしい。添付資料を詳細に読み込むこともなく、何が載っているのかもかる~く流しているだけのようだ。やれやれ。
私の両親の名前さえわかれば、他は問題がないらしい。3枚必要と記されていた写真が1枚多いとかで、返してくれたりしたものの、淡々とした事務処理が進んで、両手の指紋をデジタルスキャナーでとった後、ビザ延長の正式手続き中の証明書を渡してくれて手続きは無事完了した。証明書には有効期限半年となっているので、半年以内には新ビザが発行されるという意味なのだろう。
後は連絡が行くまで待ちなさいとのこと。何年有効のビザが発行されるのか?と聞いてみたものの、一切答えはなかった。言外に、全ては個別の事情に応じてこれからこちら側で決めることだ、との意思表示に見えた。
まあ、兎にも角にもこれから気長にご沙汰を待つことになる。
天気もいいし、近くのオープンカフェで一杯やりたいところだが、残念ながら全て閉まっている。
早く帰って家飲みだ。