国際カップル半世紀、満身不具合夫婦のフランス移住紀行ーその12ー1

DIY (Bricolage=ブリコラージュ)-1

フランスに越してきて、古い建物に住もうとするならDIYの素養は不可欠だ。少々の故障や修理は自らやらなければ、修理屋さんはなかなか来てくれないし、やっと来てもらっても、払った金額に対する満足感はほとんど期待できない。

特に、我々のような日本からやってきた老夫婦が、こちらのマンションで不具合だらけの身体に合った住み心地を求めようとすれば、それはもう自分でなんとかするしかない。

そもそも室内は土足が原則だ。床は厚いタイル張りだから、グラスや皿はしょっちゅう割れる。天井は高く、壁は漆喰かコンクリートの上に様々な壁面材で仕上げられている。家具以外に木製のものはドアだけだ。220~250Vの延長コードは径が1cmほどもあり、プラグは直径4〜5cmもあって、隠しようがない。壁に釘打ちなどできないから、額一つ掛けるのも簡単ではないのだ。

 

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模様替え直後のリビング。この後大きく手を加えることになった。

 

私は、DIYに関しては、毎週末富士山の別荘で過ごした30年を超す生活で、かなり鍛えられてはいる。

 

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全て手作りだ。流木は四万十川産を取り寄せたり、テーブルの足は切り出したヒノキ材を3年以上晒してから加工している。2階の天井裏にロフトも作った。

 

フランスでも、25年前にパリのNadiaの実家近くRue de Vignesに住まいを持ったときには、注文通りに仕上がらなかった内装に、コツコツ手を入れたものだ。道具や素材は、東急ハンズのモデルになったBHV(べー・アッシュ・ヴェー)で買い揃えたので、フランスのDIYショップの事情も知らないわけではない。

 

しかし、もっと元をただせば、ニューヨーク時代に遡る。私の人生の師でもある画家佐々木耕世氏のアトリエに転がり込んでいた頃、同居人は実は大工として生計を立てていたのだ。

佐々木耕世氏は、いわゆる前衛画家として東京で活躍していたころ、生活のためにゴジラの特撮などで有名な円谷プロに勤めていたことがある。そこで大道具小道具、精密な模型などの製作技術を磨いたのだという。

一度、円谷プロへの入社試験の課題の話をしてくれたことがあった。厚さ10 mm、幅、長さそれぞれ1000mmの板を自由に切って、制限時間内に1辺100mmの正立方体を製作しなければならなかったそうだ。一瞬簡単そうだがよく考えるとかなり難しい。

佐々木さんは、そんなところで鍛えられて大工仕事の腕を上げたのだそうだ。

後に帰国した佐々木さんは、赤城の山中に独力で間伐材を使ったアトリエを建て、近隣でも話題になった大きな洋館も建てている。もちろん何の資格も持ってはいなかった。

我々は、当時ニューヨークでブームとなった日本レストランの設計施工を請け負っていた。日本食は健康食の代名詞でもあった。私はそこで、見様見真似で大工仕事を身につけたのだ。我々が請け負う程度のアメリカの飲食店の改装工事は、まったくもっての安普請だった。以前の什器備品をできるだけ活かしながら、見た目だけ日本っぽく仕上げる程度だったから、全くシロートの私でも勤まったといえる。アメリカの寸法取りはインチより細かくなると32分割の分数となり、32分の1インチ以下は、0.1mmのような表現ができない。のこぎりも押し切りタイプで歯の厚みもかなり大きいから細かい細工には向かない。仕上げ精度よりは時間短縮が求められる世界だったので、1年ちょっとの経験では腕に何かの技術が付くわけでもなかった。ただ、大工道具や電動工具の扱いには慣れたのと、その分野の現場英語にはかなり詳しくなったことだけは事実だ。

このブログの第1弾で紹介した、パリでの日本建築プロジェクトにも、それを見込まれて招かれたものだ。当時、日本からやってくる本格的な大工さんたちの間に入って、細かい材料を現地調達したり、アメリカ人施主と施工チームとの間のやり取りのマネジメントには適役と見なされたのだ。

それにしても、パリに長野県安曇野からやってきた本格的な大工の仕事ぶりを間近で見たときの衝撃は忘れられない。

その大工さんは、神経をすり減らす仕事なので、50 過ぎては現役を続けられないと言っていたが、当時40歳代だった。趣味はクレー射撃だという。宮大工に憧れていたというが、今思い返しても宮大工並の仕事ぶりだった。毎朝起きて真っ先の仕事は道具の研ぎ作業だ。20数本そろったノミを丹念に一本ずつ研ぎ上げる。ひと現場が終わると、研ぎ減って使えなくなる。毎回新品のノミセットを誂えて次の新たな仕事にチャレンジするのだという。のこぎりの目立ても、かんなの刃研ぎも毎朝欠かさない。

3寸角の角材に鉛筆ですっと引いた線に沿って、のこぎりで直角に切り取る場面に居合わせたことがある。あっという間に切り落とした切り口の両方にかすかに鉛筆の線が残っているのだ。かんな仕事も見事と言うしかなく、削り取ったくるくる巻のカンナ屑を引っ張って戻して観ると、透き通っていて向こう側が見えるのだ。

 

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ELLE誌に載った大工さんの写真。取材時、無遠慮に写真を取りまくったので、彼は「邪魔だ!足をたたっ斬るぞ!」と息巻いた。

無論誰もわからなかった。

 

修行時代の話もすごくて、最初の何年間かは、親方と一緒に山に入り、生えている木を見ながらその性質などを覚える日々を送ったそうだ。山の南面、北面に育つ木の特徴や斜面に生える根曲がりの木の性質などを、スギや、ヒノキ、サワラ材など種類の特徴とともに徹底して学ぶのだという。同時に金槌を右左どちらでも同じように使えるまで繰り返し訓練を続けたのだそうだ。仕事のスピードも半端ではないし、建築家ともほぼ対等に渡り合う。数寄屋造りの建築は歴史的に様式がほぼ決まっているので、経験の豊かな大工のほうが建築士よりも詳しいときがある。平気で「それはおかしいだッペ」と建築家の指示に反論していた。

 

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手前のテーブルは人間国宝の手になる輪島塗。襖に描かれた竹の墨絵は、名前は忘れたが高名な画家のオリジナルだ。絞り丸太の床柱は当時日本で買っても1本100 万円はすると言われていた。

 

ニューヨークで、アメリカ式の雑な大工仕事を身に付けて来た私には、まさに衝撃的な体験であった。もちろんあの感動的な技術は身につくまでもないが、大工仕事へ取り組み姿勢とか合理的な手順とか、技術以前の臨み方をしっかりと学ぶことができたのである。

 

パリには主にスペイン産の竹の専門店もあるし、棕櫚縄を入手することもできたので、和風庭園も作った。これは、現地の作業員と私の仕事だった。施主のアメリカ人が日本庭園の写真集を開いて、こんなふうにしたい、というものを現地の作業員を指揮して作り上げるという仕事だ。庭石はフォンテンブローの森の中に踏みいって、どの石がいい?と訊かれ、写真を見ながらこのあたりかなぁというと、おそらくは無断で調達してきた。よくそんなことができたものだと今更ながら驚くばかりだ。このときの現場監督はユーゴスラビア出身、パリ5区の地元の顔役で、只者ではないオーラを放つ大柄の人物であった。彼に頼めば大抵のことは可能になった。今ポンピドー・センターが建つ地区あたりは当時再開発の最中で、建物の解体作業が進んでいた。どう話を付けたのかわからないが、昼休み時間に現場を訪れると、解体現場の監督らしい人間と解体予定の外壁だけが残る建物の石材を見て回った。私にどれがいい?と訊かれたので、庭に降りるところの石畳にちょうど良さそうな窓枠下の大きな石材を指差すと、大型クレーン車が現れて、吊り下げた大きな鉄球を振り子のように回して窓枠のすぐ下を直撃した。ガラガラ崩れ落ちた石材から目指すものを回収すると持ち込んだトラックの荷台に運び上げてさっと持ち帰ったのである。こんなことが日常茶飯だった。

 

まあその時の様々な経験のおかげで、フランスの野積みの古い建物の扱いには一般の人よりは詳しくなったことは確かである。電気・ガスの施工現場の知識も自然と身についてしまったところがある。

ただ、一度日本大工の匠の技を見てしまうと、恐れ多くてとてもその仕事のそばには近づけない、自分はDIYで十分だと思うようになった。

 

その後、日本に帰っても、大工や施工業者の作業精度を見極める目だけは身についた。しかし、パリで出会ったような匠に巡り合ったことはその後二度となかった。

大工道具は日本製にまさるものはないと思い知って、一通りの大工道具は日本で調達し、何度かに分けてこちらに運び込んでもいた。スクリューネジにさえ品質差があることも知った。日本製のネジはスクリューの切込みの溝に一工夫が施されていて、一度締めると緩むことがない。

 

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マイ大工道具のほんの一部。リョービパワードライバーはフランスで買った優れモノだ。

 

まあ、こうした経験を経て、フランスでのDIYにもあまり動ずることのない免疫性が付いたと言えるのかもしれない。

 

そして、到着早々の作業はなんとトイレの水洗器具の補修だった。水が流れっぱなしになって、緊急を要する仕事だ。